2020年12月の記事一覧

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」モニターレポート

2020年11月14日(土)、昭和村の喰丸小学校で開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。

レポート1 林あゆ美「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」に参加して

展示してあった民具がどうつくられてきたか、どのように使われてきたかを知ることは未来へのバトンのようにも思えました。わが家は農家ではありませんが、周りに田んぼが多いので、わらは身近に見られます。そのわらでこれだけの民具がつくられてきたのかという驚きは冒頭にも書いたのですが、とにかく強い印象が残りました。折しも県立博物館の民具室のポイント展でもわら細工が展示されていたので見てきました。本当にわら細工は美しい実用品です。
回を重ねる毎に自分の引き出しが増えてきて、周りにあるものを見る目が変わり、得られる情報の質も変わってきています。民具がコミュニケーションツールにもなるということは自分にとって新しいことでした。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」レポート

民具でも写真でも全てのことに共通する、残すということの意味を改めて感じさせてくれるお話しでした。しかしやはり今回の保存というテーマでも経済性ということが必ず付き纏い、他のものとの喫緊な重要性を比べられると、続けていく事が難しいのは確かです。そのためにただ保管するのでなくどう活用し、存在意味を持たせるかということが大きな事なのかと聞いていて感じました。写真の話に戻ってしまいますが、「写真は見てもらうことで初めて存在する」というある方の名言を思い出します。存在するということは、人に認知してもらうということと同義ということですね。(抜粋)

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NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第3回「奥会津の森を活かす」モニターレポート

2020年10月24日(土)、ただみ・ブナと川のミュージアムで開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第3回「奥会津の森を活かす」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。



レポート1 林あゆ美「奥会津の森を活かす」に参加して

只見の山を眺めるのはとても好きなので(山登りの体力はなく……)、雪崩によって作り出される地形というのを教えてもらい、帰りは新しい目をもらって山をみることができました。いままで知らなかったことを知り、自分の眼がバージョンアップされる感覚というのは、この「奥会津の周り方」に参加する醍醐味です。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「奥会津の森を活かす」レポート」

ディスカッションを聞いて全体的に、今私たちの手元にあるものを見直すことの重要さを感じました。新しく何かを作ることが発展と思われがちですが、もともとただでいただいて今そこにあるものを使えばいいのだという意識の問題だと感じました。まさに森林のような、自然からいただいている財産です。経済性と合い入れないということが必ず言われますが、ただ意識を転換するだけのことです。それだけなのにどうして実際の生活に生かされないのか、ということを考えさせられるディスカッションでした。(抜粋)

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NEW 県外事例調査(伊賀市島ヶ原)

県外のリサーチが続きます。


今回は三重県の伊賀、島ヶ原へ。


ここで行われている「蜜ノ木」という活動について、実行委員会委員の佐藤さん(アーツカウンシル東京)とともに、
活動を島ヶ原のみなさんと立ち上げ、継続している作家の岩名泰岳さんと、蜜ノ木メンバーであり奥様の岩名江里子さんにお聞きしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは「蜜ノ木」の拠点の一つでもある岩名さんのアトリエへ。
ここで「蜜ノ木」立ち上げから現在までをお聞きしました。
2004年に伊賀市に合併した旧島ヶ原村。
合併により島ヶ原の記憶がなくなってしまうことを恐れた中学生の岩名さん。
島ヶ原の記憶を残す手段として「絵」を認識します。
描くことをはじめてしばらくした高校1年生の時。
駅で伊賀市(旧上野町)出身の具体美術協会で活動した画家・元永定正に出逢います。
その後、元永が教える成安造形大学に進学、さらに現代美術を学ぼうとドイツへ留学。


留学2年目に日本では東日本大震災が起きました。
東日本大震災により島ヶ原に戻り社会に関わりながら制作することを決意。
島ヶ原に戻った後に、地元の同級生たちと地域のために何かできればとはじめたのが「蜜ノ木」でした。
「蜜ノ木」には様々な属性の20代から30代の若者が集まりました。
島ヶ原の歴史を調べたり、展示をしたり、トークイベントをしたり。
島ヶ原の中核をなす観菩提寺の修正会の新たな講となったり。
コロナ下では疫病退散の願いを込めて有志と島ヶ原の石仏やお寺めぐりもしていたそうです。


あらましをお聞きした後に出かけたフィールドワークではまず観菩提寺へご案内いただき、
堂守であり島ヶ原地域まちづくり協議会事務局長の山菅さんにお話をお聞きしました。
地域のみなさんの敬愛を受ける観菩提寺。
三十三年に一度ご開帳となる十一面観音菩薩立像を安置する本堂では、毎年2月に地域の複数の講が参加する修正会が行われていますが、近年、担い手不足が危惧されていたこと。
蜜ノ木講が新たに生まれ、さまざまな人が関わるようになったことなどを教えていただきました。


その後、観菩提寺の裏の観音山へ。
道に沿って大正時代に設置された石仏は西国三十三所巡礼の写し霊場になっています。
ここもまた岩名さんたちの興味の対象になっているよう。
続いて、島ヶ原内の行者堂や磨崖仏などにもご案内いただき、京都・奈良にも熊野にも伊勢にも遠くない伊賀島ヶ原の信仰の地としての気配を感じることもできました。


続いて初期の頃の蜜ノ木の拠点だったアトリエエコノミーへ。
元郵便局員だったアマチュア画家が地域のみなさんとの交流の場にもなればと手作りしていたアトリエ。
使用する前に元郵便局員さんがお亡くなりになり、しばらく放置されていたのをドイツから戻った岩名さんが使うことに。
手入れや掃除をすることが、蜜ノ木誕生前史であったそうです。
現在は蜜ノ木メンバーのお一人が制作で活用されていました。


そして再び現在の拠点・岩名さんのアトリエへ。
蜜ノ木の現場を巡った後にあらためてお話をお聞きしました。
農業や温泉業などさまざまな職種のメンバーによる蜜ノ木。
集まるだけだったり、土地のことを調べたり、あらためて歩きながら地域を探検したり、お寺の行事に本気で参加したり。
好きな時に、好きな内容に参加し、蜜ノ木メンバーであることは「各自の自称」。
ゆるやかなそのあり方は「文化系の青年団」と岩名さんは言います。
独立性の高さを保持した、アートプロジェクトでも事業体でもないそのあり方は他に類例をみないものです。
合併による地域の喪失感から端を発した(とも言える)蜜ノ木は島ヶ原の「記憶の記録」から発展して、
メンバーそれぞれのやり方で島ヶ原を「創造」しているように感じられました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

プログラム開発の一つ「地域のアイデンティティと文化資源」では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


亀田さんと浪江町大堀の松助窯を訪ねるより一足先に、亀田さんが現在拠点にされている大分県別府市の工房にお邪魔してきました。
この時も、LMN実行委員会委員でもある白河・EMANONの青砥さんにご一緒いただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災後、ご家族で神奈川県に避難した後、大分県内に妹さんが住んでいらしたご縁もあって別府市に移られた亀田さん。
別府湾が見渡せる気持ちの良い丘に、亀田さんの新しい工房はありました。


工房は、内装から作陶の道具ひとつひとつに至るまで、不思議な統一感があって、亀田さんのスタイルが隅々まで浸透しているのが伝わってきます。
ご実家が窯元だったため、震災がなければこんなふうに工房を自分の好きなように一から作ることはなかった、と仰っていたのが印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

工房の一角の展示室で、大堀のこと、震災直後のこと、別府に移られてからのことなど、お話を伺いました。
別府に来られて工房を建てる間にも様々なご苦労があったそうで、「震災に遭ったけれども新天地でがんばっている陶芸家」という一言ではとても表せないストーリーがあるのだということを改めて実感しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亀田さんの工房でひときわ存在感を放っていたのが煉瓦製の薪窯。なんと手作りの薪窯です。大堀の松助窯に残るお父様が作られた登り窯での作陶の記憶があったからでしょうか。やはり薪窯で器を焼きたい、という強い思いがあり、ご自身で煉瓦を組み上げて作ったそうです。
かなりの重労働だったとのことですが、薪窯が完成した時に、「復興した」と感じられたそうです。


亀田さんは震災以前から、いわゆる伝統的な大堀相馬焼タイプの器ではなく、ご自身のオリジナルの作品を作っていた陶芸家さんです。
それでも、制作の参考になるからと、大堀に一時帰宅した際に持ち帰った古い大堀相馬焼が、展示室の棚に静かに置いてありました。
「父が残してくれた古い大堀相馬焼を通して、父と対話している」という亀田さんの言葉に、大堀相馬焼とは何か?という問いに対するひとつの答えがあるような気がしました。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」

11月14日(土)、銀杏が美しい昭和村の喰丸小学校で、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」を開催しました。

奥会津各町村ではくらしの道具「民具」が収集され、それぞれに活用の仕方を模索しています。
そのヒントを探すべくディスカッションが行われました。


福島県立博物館学芸員の山口拡さんからは、全国的に民具コレクションが散逸・廃棄の可能性にさらされている現状が紹介されました。地域の文化を観光に活かすことが求められていますが、地域の文化を知ることは誰のためなのか、そこに博物館が果たす役割は何なのか。それを探るためにも、体験で語ることができるコミュニケーションツールとして民具を見直すことが提言されました。また、今年度LMNで試行している奥会津各町村の特徴を備えた民具キットつくりについてもご紹介いただきました。


昭和村からむし工芸博物館学芸員の松尾悠亮さんからは、昭和村における民具活用の事例をご報告いただきました。からむし工芸博物館では、昭和村で作られるからむしを伝えるため布づくり実演や地機講習会を行っています。博物館で展示されている糸づくり・布づくりの道具が今も現役で使われていることを来場者に見ていただくことで、来場者と昭和村の人々との交流の場となっているそうです。また地機講習会は楽しいお茶の時間も設け、そこで交わされる会話から、松尾さん自身、様々なことを教えてもらう場になっているそう。民具や手わざが「場」となる実例をご紹介いただきました。


NPO法人20世紀アーカイブ仙台副理事長の佐藤正実さんからは、仙台で行っている写真や映像のアーカイブ活動についてご紹介いただきました。資料としてミュージアムに収蔵されている写真・映像が、佐藤さんたちNPO法人と連携することで生きた素材となること。アーカイブとは過去と現在との経験の同期であり、未来へのプレゼンであること。たった一枚の写真から引き出される記憶の豊かさ、そこにそれを知らない世代が関わることで生み出される双方の驚き。アーカイブとはそれ自体が目的なのではなく、そこから発生する他地域・多世代間の交流こそが大切であること、またその交流を生むための仕組みつくりが肝要であることを教えていただきました。


後半の全体でのディスカッションでは、民具・映像と素材は異なりますが、ともに語りが生み出される「場」となりうることが語られました。「これ何だろう?」から対話が生まれ、わかってくるプロセス、結局わからないプロセスともにとても創造的であること。答えが出ないからこそ語り続けられるという仕組みの面白さ。


「モノ」ももちろん大切ですが、「モノ」が生み出す「場」の可能性について対話することができた第4回でした。

NEW 県外事例調査(島根県大田市)

世界遺産に認定されている島根県石見銀山。
その中心的商家だった熊谷家住宅が一般公開されています。


市から指定管理を受け、熊谷家住宅の保存管理、展示、解説、各種行事の運営を行っている合同会社「家の女たち」代表の太田洋子さんに、ご案内いただき、お話しをお聞きしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成13年、熊谷家住宅の一般公開に向け、膨大な家財の調査が行われました。
その時、京都女子大学教授・小泉和子さんの指導のもと、家財の運び出し、調査にあたったのが、太田さんを含めた地元の主婦7人でした。
作業は長年しまわれていたことによる汚れを、ひたすら掃除することから。そこに主婦の力がいかんなく発揮されたといいます。
掃除の後は、家財を分類し調査カードを作成。
先生の教えのもと調査を行ううちにどんどん興味をもち、図書館に通ったり、遠方の講演を聞きに行ったり、自分たちで調べることが楽しくなったそうです。
最初の3年間は掃除・資料整理にあたり、後の2年間でその成果を報告書にまとめられました。
報告書を見せていただきましたが、写真とともにとてもわかりやすく作られており、この報告書をもとにいつでも資料が探し出せるようなっているとのことです。


また、古い布団や端切れを利用して、訪れる人のための座布団や、展示用の再現料理をすべて手作りで行ったそうです。
細かく繕った座布団や、美しく彩られたお料理に何とも言えない温かさを感じました。


7人の主婦たちはパートという雇用形態でこの作業にあたりました。
通常のパートタイムよりも朝は遅めで、夕方は早めに時間が設定され、都合によって休みをとりやすい仕組みになっていたため、主婦にとって非常に働きやすい環境だったそうです。
興味や熱意があってもボランティアでは続かない。賃金という下支えと、働きやすい仕組み設計があったことが、5年にわたる調査研究がよい形で続いた理由のひとつとお聞きしました。
現場の力と行政の制度設計がうまくかみ合った事例ではないでしょうか。


いよいよ公開という段になり、「熊谷家の家財のことを最もよく知っているのはあなたたちなのだから、展示の案内もあなたたちがするのが一番」という小泉先生の言葉により、資料整理にあたった主婦たちが展示案内・解説、四季折々のイベントの運営にあたることになったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イベントや小学生の昔の暮らし体験では、台所の竈に火が入れられて米が炊かれ、手料理が振舞われます。「文化財」として保存されるだけではなく、まさに「活用」されています。
そこには、世界遺産に認定され一時増えた観光客が落ち着いたとしても、ここ熊谷家住宅はしっかりと教育施設として地元に定着していくべきだという公開当初からのビジョンがあったといいます。


平成23年には任意団体「家の女たち」を結成し、市の指定管理を受けるようになりました(現合同会社「家の女たち」)。
「家の女たち」という言葉は、「家刀自」に由来するそうです。
家の一切をきりもりする一家の中心である女性。
彼女たちが家刀自としてその家に住んでいるかのように、日々の掃除を行い、竈に火を入れ、季節の花を飾る。
そのように運営されることで、熊谷家は生きた家として呼吸しているように感じられました。


「家の女たち」代表の太田さんは、小泉先生、熱意のある行政担当者との出会いは、本当に「ラッキーな出会い」だったとおっしゃいました。
しっかりとしたビジョンのもとに、厳しく温かく指導してくださる小泉先生、
その意志を理解し実現するために、予算的な裏付けや制度設計を行う行政、
何よりも楽しんでそれを形にする「家の女たち」。


このようにうまく行く事例はもしかしたら少ないのかもしれません。
ですが、古民家に限らず、地域の民俗資料館や伝統の技を伝える施設など、「文化財」を生きた家・施設・技として「活用」するために、ひとつひとつ大切にしたいことばかり教えていただきました。
お話しをお聞かせいただいた「家の女たち」代表の太田さん、スタッフのみなさん、ありがとうございました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

浪江町のみなさんにとっての大堀相馬焼の姿を浮かび上がらせようとしている本事業。


今回は、現在は別府を拠点として制作活動をされている亀田さんに、ご実家である浪江町大堀の松助窯を見せていただきました。
LMN実行委員会委員でもある白河・EMANONの青砥さんもご一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展示会場でありろくろをひく工房でもあった自宅。
たくさんの人が訪れただろう趣のある店舗。
錆びた電気窯や、釉薬をかけられるのを待つ素焼きの器、ポリバケツの釉薬などがそのままな作業場。
かつての賑わいを伝える梱包・発送用の作業場。
お父様が作った登り窯。
敷地内にあるいくつかの場所を案内くださり
ここで何をしていたのか、どんな場所だったのかを
教えてくださいました。


現在も帰還困難区域である浪江町大堀地区。
10年という時間はやはり短くはなく、震災時の破損だけではない影響がそこかしこに見られました。


亀田さんの「ここに来ると自然の生命力を感じざるを得ないんですよね」という言葉は、
人の暮らしとは自然の力といかに共存できるかの試みの連続であることを教えてくれます。


煉瓦が崩れた登り窯でも、お父様が作られた自宅内の工房でも、家族以外の人も働いていた作業場でも、
亀田さんは亀田さんの中だけにあるその場の記憶を確かめるように私たちに説明を続けてくださいました。
以前一時帰宅した折には、登り窯で「別府で頑張るから」と伝えたのだということも。


亀田さんにとってこの場が、大堀相馬焼がどんな存在であったのか。
亀田さんが私たちに教えてくださったことをしっかりと受け止めて伝える。
それが、私たちにできることだと考えています。


LMNでは亀田さんの現在の拠点・別府の工房でもお話しをお伺いました。
詳細は後日、間も無くご報告します。

NEW 県外事例調査(舞鶴)

実行委員会委員の丸木美術館の岡村さんにご一緒いただき、舞鶴リサーチを行いました。


まずは、舞鶴引揚記念館へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山下館長と学芸員の長嶺さんにご案内いただきながら展示室を観覧。
舞鶴引揚記念館は、シベリア抑留や引揚の歴史、そして平和の尊さを伝える記念館として昭和63年(1988)に開館。
開館にあたっては、引揚者をはじめ多くの方からの寄附がきっかけと経費的な基盤となったそうです。
その後記念館としての活動を続けてきましたが、戦争の記憶の風化が進む中、記念館の再生をかけて運営を指定管理から市直営に戻し、若い世代への継承を念頭に平成27年(2015)にリニューアル。
同年、同館が所有する引揚に関する資料570点がユネスコ世界記憶遺産に認定されました。


常設展示室は太平洋戦争から満蒙開拓、シベリア抑留までを伝えるコーナーと
終戦後、引揚港の一つとなった舞鶴の戦後、待ち続けた人、迎えた人を伝えるコーナーに大きく分かれています。
展示室は戦争に馴染みのない世代にも受け入れられやすいようにと明るい空間を意図したそうです。
白を基調とした展示室に並ぶ展示資料はそのような空間だからでしょうか、
静かに戦争の悲惨さと平和の大切さ、亡くなった方への悼みを伝えてくれるようです。


印象的な資料はいくつも。一つご紹介します。
満州で中国の方からいただき、途中危ない時は身につけて中国人のふりをするようにと荷物の中に入れて引き揚げて来たという中国服。
美しい青の繻子地は痛み一つなく良質な服を分けて下さった方の思いも、ずっと大切にしてきた方の思いも伝わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シベリア抑留の辛苦、生き延び帰国しようとしてきたことを伝える数々の資料の中で、
ひときわ目を引いたのは、抑留経験者が自ら下絵を描き、作ってもらったという再現の人形たち。
痩せこけた体、辛い表情。
収容所の空間を再現した部屋の資料は全て手で触れてよく、毛布の薄さ、木の床の硬さを実感できました。


リニューアルにより新たに設けられた引揚と舞鶴の歴史のコーナーでは、
長い時間日本を離れ不安を抱え帰国した人々を舞鶴の人々があたたかく迎えたことがわかります。
舞鶴という土地の誇るべき歴史を伝える大切なコーナーです。


観覧後は、山下館長、長嶺さん、
そして展示室での案内を行っている語り部の皆さんの代表・NPO法人「舞鶴・引揚語りの会」の宮本理事長にお話を伺いました。
ユネスコの世界記録遺産になったことにより、市民の引揚への意識が、マイナスからプラスに転じたこと。
近隣の中学生たちや東京の高校生など若い世代が語り部に自ら参加してきていること。
記念館の誘導ではなく生まれている対等な地域との協働、引揚者、抑留経験者の高齢化が進む中での語りの会の事業の意義、語ることが自分たちの「誇り」であるということ。
地域の歴史を現在に受け継ぎ、未来に渡そうと記念館だけでなく地域の人々と取り組んでおられる事業の数々は、福島にとってもとても参考になるものでした。


最後、記念館に隣接する公園をご案内いただき、高台から、たくさんの引揚船が目指してきた船着場跡を教えていただきました。
入り組んだ入江を持ち周囲を山に囲まれた舞鶴湾はとても穏やかで、
ここに船が入った時に乗船している人たちがどんなに安堵しただろうかと想像されました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

ライフミュージアムネットワーク2020の取り組みのひとつ、「地域のアイデンティティと文化資源」をテーマとしたプログラム開発では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


江戸時代・元禄年間の開窯から300年以上にわたり、途絶えることなく作られ続けてきた大堀相馬焼。
その中心産地である浪江町大堀地区は、2011年3月の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故で被災し、大堀相馬焼のすべての関係者が産地外への避難を余儀なくされました。
大堀地区は現在もなお帰還困難区域に指定されています。


これまでのリサーチでは、大堀相馬焼の窯元や職人、作家、組合関係の方々などを中心に、福島県内は南相馬市や新地町、県外は栃木県、東京都、長野県、大阪府、そして大分県と、それぞれの移住先を訪ね、お話を伺ってきました。
震災前までの暮らしはどのようなものだったのか。
大堀はどんなところだったのか。
大堀相馬焼はどのような存在なのか。
移住先では何があったか。
復興とは何か。


リサーチを通して見えてきたのは、「震災で大変な目に遭ったけれども新天地でがんばっている福島の伝統工芸関係の人々」という、ステレオタイプなひとことでは到底括ることができない、個々の物語でした。


たとえば窯元であっても、震災後、新たな場所で大堀相馬焼を作り続けている方、大堀相馬焼ではなく自身の作品を制作している方、器以外の別のものを作り始めた方、そもそも大堀にいたときからいわゆる大堀相馬焼は作っていなかった方など、その再開のかたちや考え方はさまざまです。


遠くは九州まで広範囲に及ぶ調査を、多様な立場の方々を対象に、中立的な見地に立って実行できるのはライフミュージアムネットワークの事業ならではのことです。


大堀相馬焼とは何か?という問いに対する答えは、ひとつの言葉で表せるものではありません。
捉えがたいその姿を目に見えるものにするために、個別のリサーチを積み上げてアプローチしていくことが必要です。
今後は、大堀相馬焼の作り手だけでなく、大堀相馬焼を使っていた地元・浪江町の方々や、コレクター、研究者、学校関係の方々などにもお話を伺っていきます。