当館の収蔵資料データベースの中から、考古・民俗・歴史・美術・自然・災害の各分野から注目の資料を紹介します。
会津大塚山古墳 3世紀中ごろから日本各地で、前方後円墳をはじめとする形や副葬品が共通する古墳がつくられるようになります。会津大塚山古墳がつくられたのは、出土遺物の特徴から4世紀の中ごろと考えられています。 |
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幻の土人形~根子町人形 現在の福島市清水町、江戸時代の奥州街道沿いにあった小さな宿場(通称:根子町宿)でつくられたこの人形は、近世後半に生まれて大正初期には姿を消しました。仙台屋・吉野屋という2軒の家でのみつくられ、短い命で幕を下ろした、まぼろしの土人形といえます。仙台・堤人形系の人形ですが、その大きな特徴は素焼きの人形に和紙を張り付けて彩色する製法で、絵画的表現に富んでいると言われます。土地の粘土を使用しているため精粗の差も大きく、和紙を張るのは土の割れを防ぐ目的がありました。その種類には、雛人形や天神人形などの節句に飾られる人形、エビス大黒のような縁起物、歌舞伎物の人形などがあります。明治時代には、養蚕の盛んであった信達地方の地域的な特色を背景にして、女性をかたどった養蚕神が多く作られて流行しました。 |
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会津藩校日新館の教育 会津藩は藩主松平容頌(1744~1805)の時代にさまざまな藩政改革を行い、その一環で学制改革もすすめられました。1791年(寛政3)には古学派(儒学の一派)の学者である古屋昔陽が会津に招かれて藩士に精力的に講義を行ったり、新しい学校の創設に尽力しました。1799年(寛政11)には総合的な学校の建設がはじまり、1803年(享和3)に完成しました。学校名は『書経』の「日々新而又日新」などから日新館と定められ、基本の文武や礼式のほか、多様な学問が学べるようになっていました。子どもたちは10歳位で入学するとはじめに儒学書を教科書に漢文の読み方を習い(素読)、それから徐々に習字や武芸も学びました。一日のおおまかな時間割は、①8~10時:素読(素読所)、②10~12時:習字(書学寮)、③12~13時:昼食、④13~15時:各種武芸(武学寮)のようになっていました。日新館では士分以上(上士)の会津藩士の子弟が学び、中士の子弟には別に青藍舎(北学館)や友善舎(南学館)が整備されました。 |
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会津の絵画 福島県立博物館ではこれまで会津の絵画の調査・研究を進めてきました。活動の中で、多くの所蔵者のみなさんから、寄贈や寄託という形で大切な所蔵作品を当館にお預けいただいています。それにより当館では、室町時代から現代までの会津出身、あるいは会津で活躍したゆかりの絵師・画家たちの作品を幅広くご紹介できる厚みを収蔵品に持つことができました。
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福島県民の関わった南極観測 南極は地球の最も南にある南極点を含む大陸です。面積は約1400万km2で福島県の面積の約1000倍に相当し、地球上で5番目に大きな大陸です。最も高いところは海抜4892mになり、エレバス山など多くの火山があります。 |
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東日本大震災の避難所資料 地震、津波、原発事故という複合災害に見舞われた福島県では避難のあり方も多様であり、また幾度もの避難を繰り返すことになりました。地震発生直後に避難した近隣の学校や公民館、津波や放射能から逃れるために向かった町内外の施設、数カ月もの時間を過ごした大規模避難所、さらに県外での長期の避難場所など避難先は多岐にわたりました。特に最初の避難所は数時間から一日程度の滞在だった所もあり、支援物資をはじめ生活のためのあらゆるものが不足しており、その場で手に入るものを手あたり次第に利用した様子を伺い知ることができます。放射能汚染により人の立ち入りが制限された地域では、震災から数年たった後もその痕跡が各所に残され、当時の状況を伝えることになりました。放置された状況が続いたことも、福島県における東日本大震災に関する避難所での資料を収集できたことにつながり、今へ当時の状況を伝える資料となっています。 <準備中です> |