活動報告

NEW 県外事例調査(島根県大田市)

世界遺産に認定されている島根県石見銀山。
その中心的商家だった熊谷家住宅が一般公開されています。


市から指定管理を受け、熊谷家住宅の保存管理、展示、解説、各種行事の運営を行っている合同会社「家の女たち」代表の太田洋子さんに、ご案内いただき、お話しをお聞きしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成13年、熊谷家住宅の一般公開に向け、膨大な家財の調査が行われました。
その時、京都女子大学教授・小泉和子さんの指導のもと、家財の運び出し、調査にあたったのが、太田さんを含めた地元の主婦7人でした。
作業は長年しまわれていたことによる汚れを、ひたすら掃除することから。そこに主婦の力がいかんなく発揮されたといいます。
掃除の後は、家財を分類し調査カードを作成。
先生の教えのもと調査を行ううちにどんどん興味をもち、図書館に通ったり、遠方の講演を聞きに行ったり、自分たちで調べることが楽しくなったそうです。
最初の3年間は掃除・資料整理にあたり、後の2年間でその成果を報告書にまとめられました。
報告書を見せていただきましたが、写真とともにとてもわかりやすく作られており、この報告書をもとにいつでも資料が探し出せるようなっているとのことです。


また、古い布団や端切れを利用して、訪れる人のための座布団や、展示用の再現料理をすべて手作りで行ったそうです。
細かく繕った座布団や、美しく彩られたお料理に何とも言えない温かさを感じました。


7人の主婦たちはパートという雇用形態でこの作業にあたりました。
通常のパートタイムよりも朝は遅めで、夕方は早めに時間が設定され、都合によって休みをとりやすい仕組みになっていたため、主婦にとって非常に働きやすい環境だったそうです。
興味や熱意があってもボランティアでは続かない。賃金という下支えと、働きやすい仕組み設計があったことが、5年にわたる調査研究がよい形で続いた理由のひとつとお聞きしました。
現場の力と行政の制度設計がうまくかみ合った事例ではないでしょうか。


いよいよ公開という段になり、「熊谷家の家財のことを最もよく知っているのはあなたたちなのだから、展示の案内もあなたたちがするのが一番」という小泉先生の言葉により、資料整理にあたった主婦たちが展示案内・解説、四季折々のイベントの運営にあたることになったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イベントや小学生の昔の暮らし体験では、台所の竈に火が入れられて米が炊かれ、手料理が振舞われます。「文化財」として保存されるだけではなく、まさに「活用」されています。
そこには、世界遺産に認定され一時増えた観光客が落ち着いたとしても、ここ熊谷家住宅はしっかりと教育施設として地元に定着していくべきだという公開当初からのビジョンがあったといいます。


平成23年には任意団体「家の女たち」を結成し、市の指定管理を受けるようになりました(現合同会社「家の女たち」)。
「家の女たち」という言葉は、「家刀自」に由来するそうです。
家の一切をきりもりする一家の中心である女性。
彼女たちが家刀自としてその家に住んでいるかのように、日々の掃除を行い、竈に火を入れ、季節の花を飾る。
そのように運営されることで、熊谷家は生きた家として呼吸しているように感じられました。


「家の女たち」代表の太田さんは、小泉先生、熱意のある行政担当者との出会いは、本当に「ラッキーな出会い」だったとおっしゃいました。
しっかりとしたビジョンのもとに、厳しく温かく指導してくださる小泉先生、
その意志を理解し実現するために、予算的な裏付けや制度設計を行う行政、
何よりも楽しんでそれを形にする「家の女たち」。


このようにうまく行く事例はもしかしたら少ないのかもしれません。
ですが、古民家に限らず、地域の民俗資料館や伝統の技を伝える施設など、「文化財」を生きた家・施設・技として「活用」するために、ひとつひとつ大切にしたいことばかり教えていただきました。
お話しをお聞かせいただいた「家の女たち」代表の太田さん、スタッフのみなさん、ありがとうございました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

浪江町のみなさんにとっての大堀相馬焼の姿を浮かび上がらせようとしている本事業。


今回は、現在は別府を拠点として制作活動をされている亀田さんに、ご実家である浪江町大堀の松助窯を見せていただきました。
LMN実行委員会委員でもある白河・EMANONの青砥さんもご一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展示会場でありろくろをひく工房でもあった自宅。
たくさんの人が訪れただろう趣のある店舗。
錆びた電気窯や、釉薬をかけられるのを待つ素焼きの器、ポリバケツの釉薬などがそのままな作業場。
かつての賑わいを伝える梱包・発送用の作業場。
お父様が作った登り窯。
敷地内にあるいくつかの場所を案内くださり
ここで何をしていたのか、どんな場所だったのかを
教えてくださいました。


現在も帰還困難区域である浪江町大堀地区。
10年という時間はやはり短くはなく、震災時の破損だけではない影響がそこかしこに見られました。


亀田さんの「ここに来ると自然の生命力を感じざるを得ないんですよね」という言葉は、
人の暮らしとは自然の力といかに共存できるかの試みの連続であることを教えてくれます。


煉瓦が崩れた登り窯でも、お父様が作られた自宅内の工房でも、家族以外の人も働いていた作業場でも、
亀田さんは亀田さんの中だけにあるその場の記憶を確かめるように私たちに説明を続けてくださいました。
以前一時帰宅した折には、登り窯で「別府で頑張るから」と伝えたのだということも。


亀田さんにとってこの場が、大堀相馬焼がどんな存在であったのか。
亀田さんが私たちに教えてくださったことをしっかりと受け止めて伝える。
それが、私たちにできることだと考えています。


LMNでは亀田さんの現在の拠点・別府の工房でもお話しをお伺いました。
詳細は後日、間も無くご報告します。

NEW 県外事例調査(舞鶴)

実行委員会委員の丸木美術館の岡村さんにご一緒いただき、舞鶴リサーチを行いました。


まずは、舞鶴引揚記念館へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山下館長と学芸員の長嶺さんにご案内いただきながら展示室を観覧。
舞鶴引揚記念館は、シベリア抑留や引揚の歴史、そして平和の尊さを伝える記念館として昭和63年(1988)に開館。
開館にあたっては、引揚者をはじめ多くの方からの寄附がきっかけと経費的な基盤となったそうです。
その後記念館としての活動を続けてきましたが、戦争の記憶の風化が進む中、記念館の再生をかけて運営を指定管理から市直営に戻し、若い世代への継承を念頭に平成27年(2015)にリニューアル。
同年、同館が所有する引揚に関する資料570点がユネスコ世界記憶遺産に認定されました。


常設展示室は太平洋戦争から満蒙開拓、シベリア抑留までを伝えるコーナーと
終戦後、引揚港の一つとなった舞鶴の戦後、待ち続けた人、迎えた人を伝えるコーナーに大きく分かれています。
展示室は戦争に馴染みのない世代にも受け入れられやすいようにと明るい空間を意図したそうです。
白を基調とした展示室に並ぶ展示資料はそのような空間だからでしょうか、
静かに戦争の悲惨さと平和の大切さ、亡くなった方への悼みを伝えてくれるようです。


印象的な資料はいくつも。一つご紹介します。
満州で中国の方からいただき、途中危ない時は身につけて中国人のふりをするようにと荷物の中に入れて引き揚げて来たという中国服。
美しい青の繻子地は痛み一つなく良質な服を分けて下さった方の思いも、ずっと大切にしてきた方の思いも伝わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シベリア抑留の辛苦、生き延び帰国しようとしてきたことを伝える数々の資料の中で、
ひときわ目を引いたのは、抑留経験者が自ら下絵を描き、作ってもらったという再現の人形たち。
痩せこけた体、辛い表情。
収容所の空間を再現した部屋の資料は全て手で触れてよく、毛布の薄さ、木の床の硬さを実感できました。


リニューアルにより新たに設けられた引揚と舞鶴の歴史のコーナーでは、
長い時間日本を離れ不安を抱え帰国した人々を舞鶴の人々があたたかく迎えたことがわかります。
舞鶴という土地の誇るべき歴史を伝える大切なコーナーです。


観覧後は、山下館長、長嶺さん、
そして展示室での案内を行っている語り部の皆さんの代表・NPO法人「舞鶴・引揚語りの会」の宮本理事長にお話を伺いました。
ユネスコの世界記録遺産になったことにより、市民の引揚への意識が、マイナスからプラスに転じたこと。
近隣の中学生たちや東京の高校生など若い世代が語り部に自ら参加してきていること。
記念館の誘導ではなく生まれている対等な地域との協働、引揚者、抑留経験者の高齢化が進む中での語りの会の事業の意義、語ることが自分たちの「誇り」であるということ。
地域の歴史を現在に受け継ぎ、未来に渡そうと記念館だけでなく地域の人々と取り組んでおられる事業の数々は、福島にとってもとても参考になるものでした。


最後、記念館に隣接する公園をご案内いただき、高台から、たくさんの引揚船が目指してきた船着場跡を教えていただきました。
入り組んだ入江を持ち周囲を山に囲まれた舞鶴湾はとても穏やかで、
ここに船が入った時に乗船している人たちがどんなに安堵しただろうかと想像されました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

ライフミュージアムネットワーク2020の取り組みのひとつ、「地域のアイデンティティと文化資源」をテーマとしたプログラム開発では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


江戸時代・元禄年間の開窯から300年以上にわたり、途絶えることなく作られ続けてきた大堀相馬焼。
その中心産地である浪江町大堀地区は、2011年3月の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故で被災し、大堀相馬焼のすべての関係者が産地外への避難を余儀なくされました。
大堀地区は現在もなお帰還困難区域に指定されています。


これまでのリサーチでは、大堀相馬焼の窯元や職人、作家、組合関係の方々などを中心に、福島県内は南相馬市や新地町、県外は栃木県、東京都、長野県、大阪府、そして大分県と、それぞれの移住先を訪ね、お話を伺ってきました。
震災前までの暮らしはどのようなものだったのか。
大堀はどんなところだったのか。
大堀相馬焼はどのような存在なのか。
移住先では何があったか。
復興とは何か。


リサーチを通して見えてきたのは、「震災で大変な目に遭ったけれども新天地でがんばっている福島の伝統工芸関係の人々」という、ステレオタイプなひとことでは到底括ることができない、個々の物語でした。


たとえば窯元であっても、震災後、新たな場所で大堀相馬焼を作り続けている方、大堀相馬焼ではなく自身の作品を制作している方、器以外の別のものを作り始めた方、そもそも大堀にいたときからいわゆる大堀相馬焼は作っていなかった方など、その再開のかたちや考え方はさまざまです。


遠くは九州まで広範囲に及ぶ調査を、多様な立場の方々を対象に、中立的な見地に立って実行できるのはライフミュージアムネットワークの事業ならではのことです。


大堀相馬焼とは何か?という問いに対する答えは、ひとつの言葉で表せるものではありません。
捉えがたいその姿を目に見えるものにするために、個別のリサーチを積み上げてアプローチしていくことが必要です。
今後は、大堀相馬焼の作り手だけでなく、大堀相馬焼を使っていた地元・浪江町の方々や、コレクター、研究者、学校関係の方々などにもお話を伺っていきます。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第2回「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」モニターレポート

2020年9月19日(土)、やないづ町立斎藤清美術館で開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第2回「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。

 

レポート1 林あゆ美「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」に参加して

地域の行事を継続していくには、時間と人付きあいの折り合いが必要です。フルタイムの会社員をしていると、時間を捻出して参加するのが難しい。村の爺様たちと付き合っていくのも、なかなかに大変です(笑)。私など何をしても叱られてばかりで、へこんだものです。それでも、知らない世界は新鮮ですし、受け継ぐことの大事さも感じます。久しぶりの村役員の今年も、関わり始めるとおもしろい事も多いです。子どもは少なくなり子ども会はなくなり、村の人たちも多くの人は積極的に行事や村作業に関わるわけではありません。けれど、まずは役員の時くらい自分にできることをしようと思っています。
幸せに生きていくことは、住んでいる地域と繋がることにもある。金子さんの話を聞いて、ますますそう思いました。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「柳津町レポート」

題名からはあまり想像できなかった今回の柳津町のテーマは、私なりに「小さなそれぞれ視点から大きなものを見る」ことではないかなと勝手に解釈しました。個々の家の宝から見えてくるもの、自然栽培から見えるてくるもの、藁から見えてくるもの。別のものを見ていても、その先に見えてくるものは共通している感じがします。奥会津でどのようなことが大切なのか、これから大切にしていかなければいけないのか。小さな視点、例えば私の個人的な視点でも重要になるのかな、と思えるような今回のオープンディスカッションでした。(抜粋)

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