活動報告
アートワークショップ「つくること・つかうこと」打合せ
アートワークショップ「つくること・つかうこと」。
コロナの影響を受け、思うように進められなかった夏が過ぎ、
ようやくフィールドとなる只見町で打ち合わせを行えました。
昨日の夏日から一転、秋の気配が色濃い雨模様の奥会津・只見町。
霧に煙る山並みが見える只見・ブナと川のミュージアムに只見町の中野さん、新国さん、
そして、これまでのライフミュージアムネットワークの奥会津の事業でご一緒いただいていた柳津町の齋藤清美術館の伊藤さん、
同美術館に所属する地域起こし協力隊の我妻さん、谷野さん、塚原さん、
事務局メンバーの福島県博学芸員が集まりました。
只見町でのアートワークショップのテーマは「つくること・つかうこと」。
SDGsの「つくる責任・つかう責任」を意識したテーマです。
昨年度までのライフミュージアムネットワークの奥会津での事業の成果を共有した後、同テーマで捉えた場合の只見町の課題、柳津町の現状、じゃあ、どうしようか、を話しあいました。
自然の恵みを得て、知恵によって道具を作り、使ってきた奥会津。
高齢の方達とその下の世代との考え方の違い。暮らし方の変化。
大切に思えることを、どのように伝えたり、残したら良いのか。
今日の議論を集約すると、キーワードは「民具ってなに?」だった気がします。
道具をつくる季節である冬を前に、方向性が見えてきました。
冬にかけて「つくること・つかうこと」を探っていきます。
白河アートワークショップ 陸奥賢さんレポート
白河アートワークショップを担当してくださっている陸奥賢さんの白河リサーチレポートです。
街歩きの賢者はさすがの眼力をお持ちです。
数日の街歩きで見事に地域の特徴を掴み、そこから導きだされた白河とそこに暮らす人々への温かいエールでもあります。
いただいた白河への視点を高校生や若い世代に伝える手法をこれから考えていきます。
陸奥さん、ありがとうございました。
引き続きよろしくお願いします。
≪陸奥賢さんによる白河レポート≫
白河で、まず気になったのは寺院の多様性。天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗、曹洞宗、臨済宗に黄檗宗、時宗の寺院まであると聞いて驚く。
その理由としては、白河は、江戸時代、7家21代もの藩主の入れ替わりがあり、それに伴って藩主の檀家寺が移設され、それが多彩な寺院の集積に繋がっているという。白河は奥州街道沿いにあり、東北と関東を結ぶ重要な拠点となる。そこに大藩を置いて勢力を保持されることは幕府からするとあまり望ましいことではなかったのだろう。結果として、藩主を次々と変える戦略がとられて、その結果、ポリフォニックな宗教都市ができ上ったように思う。
宗旨・宗派の違いは、現代人にはそれほど強く意識されないが、江戸時代の人にとってみれば、宗旨や宗派には、かなり強い帰属意識やアイデンティがあったと思われる。「門徒もの知らず」「法華骨なし」「禅宗銭なし」「浄土情なし」といった他宗を揶揄する言葉があるが、地域によっては、宗旨・宗派の違いによって深刻な対立や分断などもあった。白河は、しかし、宗旨・宗派の違いなどを柔軟に受け止め、「いろんな宗教があっていい」という涵養の精神が培われたのではないだろうか。この手の自分とは違う背景、バックボーンを持つ人間=他者への寛容性が白河にはあったように思うし、これが白河の戊辰戦争時の東軍、西軍問わず戦死者を供養した…という「仁」の精神の拠り所になったのかも知れない。
次々と藩主が変わった都市といえば、浜松などがある。クリエイティブサポートレッツの仕事などで、何度か訪れているが、ここも東海道沿いで、戦略上、重要な拠点であり、江戸時代は大藩が置かれなかった。それで、浜松気質を表す言葉として「やらまいか」という方言があった。藩主(お上)が次々と変わるので、あてにならない。だから自分たち町衆でなんでもやっていこうという気概があり、それを「やらまいか」(やってみようではないか)精神というらしい。じつは、この「やらまいか」に似た精神性が白河にもあるのではないか?と推測している。今回の白河訪問では博物館、ミュージアム関係者が多く、あまり町衆(市民、住民)との接点は多くなかったが、コミュニティカフェ「EMANON」のみなさんには、そういう逞しいスピリッツを感じた。高校生たちで企画し、取材し、執筆し、編集しているというフリーぺーパーの存在やクラファンやDIYによるゲストハウス運営などを、その証左として挙げておきたい。
戊辰戦争はあったが、太平洋戦争などの空襲はなく、戦後のモータリゼーションの影響(主要道路、バイパスなどは白河郊外にひかれた)もそれほど受けなかったのが、白河の都市の面白さと可能性で、「通り五町」などは城下町時代の面影を色濃く残している。じつは城と町のあいだに国鉄(JR)が引かれ、それによって城(とくに会津町武家屋敷などは、ほぼ崩壊していて見事なまでに何も残っていない。残す気がなかったのか?この武家屋敷への無関心さにも町衆の自立性・自主性を感じる)と町が分断されているが(駅の北に城があり、南に町があり、この分断構造もちょっと面白い)、江戸時代の町割(通り五町)は、ほぼ、そのまま維持されているのが素晴らしい。それが白河をヒューマンスケールな都市にしているし、「歩ける都市」にしている。この「人間味」「温かみ」のようなものは、もっと注目されていいと思われる。
「だるま市」「提灯まつり」といった祭礼もあり、これも非常に気になっている。できれば、こうした祭礼の時期の白河もぜひとも訪問して見てみたい。祭礼をみれば、町衆がわかるし、都市がわかるものだから。
まだ十分に白河の調査はできていないが、ファーストコンタクトの印象としては、「まち歩きのまち」としてのポテンシャルは高く、いろんなまち歩きが仕掛けられるのではないか?と予感している。
2021年9月25日 陸奥 賢
白河アートワークショップ リサーチ二日目
白河アートワークショップ調査二日目
二日目は、現在の白河市街の成り立ちについて、藤田記念博物館学芸員の佐川庄司さんからお話を伺いました。佐川さんは学芸員でもありますが、長く白河市建設部でまちづくりに携わってきた方です。
白河市街地の都市計画は、ほぼ400年前に誕生しました。もともと、白河は中世の南東北で大きな勢力を持った結城氏の拠点「白川城」がありました。しかし、慶長年間に小峰城が改修されると、現代と重なる街並みが整備されました。吹き付ける那須颪から町を守るため、立石山・天神山を風よけにして奥州街道を東西にのばし、城下町がつくられたと考えられます。人口の増加に対応して、阿武隈川の流路を変えたり、新しい街区を整備したり、少しずつですが城下町は拡大していきます。
大きな転機を迎えたのは戊辰戦争と明治の近代化です。白河は戊辰戦争直前に、城主阿部氏が転封、後続の大名配置が先送りになっていたこともあり、武士不在の町として戊辰戦争をくぐり抜けます。小峰城は石垣を残してほぼ焼失、武家屋敷は明治時代には田畑になってしまいました。
明治20年に鉄道が開通しますが、旧外堀と武家屋敷跡地に敷設されたため、町人が暮らす街並みには大きな影響を受けませんでした。
大正時代には市街地の両端に旧制白河中学校と白河高等女学校が置かれ、新たなまちづくりがおこなわれるようになります。
一方で、昭和55年に東北新幹線が開業すると、広大な平地をもつ郊外に商業施設・住宅地が誘引されていくようになります。
駅・鉄道が市街地を避けたこと、第二次世界大戦中に空襲の被害がなかったこと、昭和45年に市街地を迂回するバイパスが通されたこと。奇跡と言ってもよい、さまざまな要素が積み重なって、白河は城下町としての性格が色濃く残ったことがわかりました。
午後には市街地を離れ、戊辰戦争の激戦地となった稲荷山、原始の人びとの生活を伝える文化財センター白河館(まほろん)、松平定信が掲げた「四民共楽」の象徴でもある南湖公園を見学し、白河の街並みと、その奥底に眠る文化に目を向けることができました。
白河アートワークショップ リサーチ一日目
白河アートワークショップでは、地域の高校生とともに、白河のまちの魅力を探ります。
まち歩きの達人・陸奥賢(観光家・コモンズデザイナー)さんをお招きし、白河のまちのリサーチを行いました。
白河アートワークショップ調査1日目
コロナ禍の影響で、現地白河へなかなか調査に伺うことができずにいましたが、ようやく始動することができました。
白河に限らず地方で大学等の高等教育機関がないまちでは、一定数の若者が、一定の期間、確実に町を離れてしまうことになります。そのため、地元を離れる前に、高校生がアーティストや研究者とともに地域を学び、地域の歴史や伝統文化に触れる新たな視点・学びの方法を得ることができないかと考えました。
知識が増え、町の見方が変わることで地域への愛着も増すのではないかと考えています。まして、白河市の中心部では人口減少が進み、かつての中心市街地に住む若者も少なくなり、町中心部を歩いたい見て回ったりする機会も少なくなっているのではと思います。
歴史的に見ると松平定信公が治めた城下町でもあり、福島県を語るうえで重要な戊辰戦争の舞台にもなった白河を三日間かけて調査してきました。
今回の担当はほぼ白河素人なので、第1日目の午前中はレンタサイクルを利用して、町中を確認してまわりました。
午後、今回の拠点として考えているEMANONを出発地点としました。市役所建設部からもご参加いただき、100円で食べられるものを探しながら小路を訪ねました。たくさんの寺院・宗派が混在し、東北では珍しい宗派の寺院も訪ねました。
辻々に戊辰の犠牲を弔う石碑や、大正時代の建築、昭和の看板などなど、時間を経て現代につながっている町の姿を確認してきました。
二日目以降は、どのように町が成立し今の姿になってきたのか調査を進めていきます。
アートワークショップ「海幸山幸の道」リサーチ・撮影(飯舘・浪江)
「海幸山幸の道」では、阿武隈山系から沿岸地域に至る食の記憶と現在についてインタビューを行い、その土地の風景とともに伝える映像作品を制作します。
8月22日~23日、前回リサーチさせていただいた飯舘村を、映像作家の飯田将茂さんと再び訪れました。
22日
認定NPO法人ふくしま再生の会の田尾さんにご案内いただき、帰還困難区域となっている長泥地区へ。
そこでは5000ベクレル以下の除染土を埋め、山砂を積み、「再生」が行われています。
「再生」とは何か。
動植物や地中の細菌が織りなす営みによって土がつくられ、その土を耕し、土の恵をいただいて、人と自然が共生する社会を生み出すことではないのか。
解決策や解答がなくても、現場から考えること、考える場をつくること、みなが考える席につきそこから始めること。
長泥地区の風景の中で語られる田尾さんの言葉を記録しました。
ホームセンター・コメリ跡地で、合同会社MARBLINGの矢野純さんにお話をお聞きしました。
MARBLINGの考える「未来のいなか」は、決して都会の人が求める「理想の田舎」ではない。「スローライフ」なんてとんでもない。人間にはままならない自然を相手に、始終働き続け、その結果が実らないことも受け入れる生き方。そこには驚くほどの知恵と技とアートがある。この場にじっくり身をおいてこそわかることがあることを知る仕組みを考えていきたいとお話しいただきました。
23日
まず斎藤次男さんの畑を撮影。前回伺った時に青々としていた葉は枯れていましたが、カボチャや瓢箪はいよいよ大きく実っていました。
斎藤さんが考える土づくりについて、ぜひ次回お伺いしたいと思います。
次に牛牧場を営む、山田猛史さん・豊さん親子を訪ねました。山田さんは大規模牛舎、田んぼ跡地の放牧地、丘を切り開き運動場を備えた牧場と、3種類の形態で牛を育てています。
今回は丘の牧場を訪ねました。牛たちのどこか伸びやかな表情が印象的でした。
帰還後の状況に応じてそれぞれ営まれてきた形態やマーケティングについて教えていただきました。
飯田さんが注目したのは猛史さんの頑健な体つき。牛と付き合ってきた暮らしが猛史さんの体をつくりあげています。現場に根差して生きることの意味を何よりも雄弁に物語っているようでした。
後半はミズアオイの群生地を求めて浪江町へ。
ミズアオイは古代から日本に自生する水辺を好む花。田んぼの開発や除草剤の使用によって絶滅危惧種になっていましたが、福島では東日本大震災による津波のあと、地中に眠っていた種が目を覚まし、各地で群生するようになりました。復興が進む中で次第に姿を消しつつありましたが、最近、除染土を入れたフレコンバッグが置かれていた浪江町の田んぼ跡地に群生していることが報告されました。
ミズアオイは、私たちの食生活を支える水田開発、震災と津波、復興への取り組みと刻々状況が変化する中、人と自然との関係性を象徴するかのような花です。
実際に訪れたミズアオイの群生地は、想像をこえて広がっていました。どうしてこのように広範囲に群生しているのか、その理由はまだわかりません。
ただ圧倒的に美しく、そこに咲いていました。
「海幸山幸の道」ではリサーチと撮影を重ねていきます。