活動報告

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

プログラム開発の一つ「地域のアイデンティティと文化資源」では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


津島小学校最後の小学生で、浪江小学校・津島小学校の震災後の「ふるさとなみえ科」を残し伝える「10年間ふるさとなみえ博物館」館長の須藤嘉人くんを中心に展示作業を行った後、津島小学校の木村先生と武内先生に「大堀相馬焼とは?」についてお話を伺いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浪江小学校・津島小学校の「ふるさとなみえ科」では、大堀相馬焼体験が毎年必ず取り入れられてきました。
先生方には、「ふるさとなみえ科」の様々な活動の中で、大堀相馬焼はどのような存在だったのか、子どもたちや学校を見守ってくださった大人の皆さんの反応はどうだったか、震災前と震災後ではどう変わったか等々のお話をお聞きしました。


「ふるさとなみえ科」で児童がつくった「なみえっ子カルタ」の中に、「ぼくの夢 ろくろで大堀相馬焼」という1枚があります。
最初にこれを見たとき、将来大堀相馬焼の職人さんになりたい子がつくったのかな?と思っていたのですが、実はそうではなかったようです。
先生方によると、大堀相馬焼体験のうち、ろくろは高学年になってからでないと使えなかったそうです。このカルタは「早くろくろを使ってみたい」というあこがれの気持ちを表したものだとか。
子どもたちも大堀相馬焼体験を楽しみにしていた様子がうかがえます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

木村先生の、「子どもたちの心の引き出しの中のひとつに大堀相馬焼体験が入っていて、しばらくはしまったままになるかもしれないけれど、将来、何かの折りにふっと引き出しが開いて、思い出したり懐かしんだりしてくれると嬉しい」という言葉がとても印象的でした。
子どものうちに体験したことって、大人になってから思いがけないところで役に立ったり、心を豊かにしてくれたりするものですよね。


「ふるさとなみえ科」の大堀相馬焼体験もきっと(しばらくは出番待ち状態になるかもしれませんが)、浪江小・津島小の子どもたちの心の中の宝物になったのではないでしょうか。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」博物館づくり

プログラム開発の一つ「地域のアイデンティティと文化資源」では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


その一環で、浪江町立浪江小学校・津島小学校が2011年に避難先である二本松市に避難してから行ってきた「ふるさとなみえ科」について伝える「博物館」づくりのお手伝いをしています。


12月21日、津島小学校最後の小学生にして「10年間ふるさとなみえ博物館」館長の須藤嘉人君と2回目の展示作業を行いました。


まずは展示室となる教室の壁を強化・美化するために厚い板段ボールを取り付けます。
嘉人館長自らトンカチを握りました。
続いて、「10年間ふるさとなみえ博物館」の骨格となる10年間の活動年表や、授業のなかで、浪江町のことを調べてまとめた壁新聞などを貼り付けました。
年表の下には「ふるさとなみえ科」で児童や保護者のみなさんが製作した大堀相馬焼。
ロッカーを活かした教室ならではの展示です。


嘉人館長が博物館づくりの最初に考案した「博物館の使命」は二本松産の上川崎和紙に館長の自筆で書かれ、黒板に掲示されました。
この3つの使命を実現するために嘉人館長は展示候補の資料をカードにし、展示室図面を考えたのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後に嘉人館長による「館長あいさつ」のテキスト案と展示室に掲示するパネルのテキスト案を読んでもらいました。
素晴らしい「館長あいさつ」は、今後の作業で展示室に設置されます。
10年間ふるさとなみえ博物館の完成までもう少しです。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第5回「奥会津をつなぐ」(最終回)

12月19日(土)、連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」最終回となる「奥会津をつなぐ」を、金山町中央公民館で開催しました。


しんしんと雪が降り積もる奥会津らしい雪景色の中、ディスカッションは始まりました。
前半は榎本千賀子さん(新潟大学創生学部特任助教)、栗城辰男さん(玉梨八町温泉組合会長)、栗城英雄さん(山入近隣会)にご登壇いただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

榎本さんは金山町民の角田勝之助さんが撮影してこられた数々の写真や、各家に残っている古い写真から金山町の歴史や文化を考える「かねやま「村の肖像」プロジェクト」に携わってこられました。
今回は民具、温泉、芸能をテーマに写真をご紹介いただきながら、お二人の栗城さんとともに、弥平民具コレクションの活用、八町温泉や山入歌舞伎が地域の核としてコミュニティや文化を育んできたことについてお話しいただきました。


弥平民具は金山町自然教育村会館(旧玉梨小学校)に収蔵されていますが、普段は一般公開されていないことから、金山町の手仕事に携わる人たちにもあまり知られていないそうです。
今年10月に開催された「またたび細工研究会」では、弥平民具に伝わる昔の編み組細工を囲んで、現在の作り手が作り方や材料の使い方について検討する場が設けられました。そこでは、現在のまたたび細工ではきれいに整える部分を、昔のものは修理のしやすさを第一に考えて作られているなど様々な発見があり、民具を介して現在と過去が行き来する対話が生まれました。今はしまいこまれている民具を活かすヒントがここにありそうです。


玉梨地区の八町温泉は男女混浴の共同浴場です。かつて青年団にとって温泉掃除に集い、男も女も一緒になって背中を流しあうことが何よりの楽しみだったと栗城辰男さんはおっしゃいます。
八町温泉を流れる野尻川にはかつて巨石が点在していました。石にはひとつひとつ名前がつけられ、信仰の対象であり、こどもたちの遊び場でもあったそうです。
しかし、昭和33年、44年の水害時、これらの巨石が川を堰き止めたことによって被害が拡大したことから爆破によって撤去されてしまいました。
風景が変わり、若者も減り、八町温泉の様相も大きく変わりました。維持管理もとても大変だといいます。
ですが、辰男さんは今もご夫婦で毎日八町温泉に行き、ご近所さんと一日のあれこれを話しながらお風呂に入ることが日課だそうです。まさにくらしの一部であり、人を結ぶ場です。
現在、玉梨地区の温泉は泉質の多様さが注目され、観光資源として開発が進められていますが、それだけではない、人と人とを結び文化が生まれる場という温泉の豊かさも伝えていけたらいいのではないかと榎本さんから提言がなされました。


金山町は江戸時代から農村歌舞伎が盛んで、かつては地区ごとに一座が組まれ興行されていましたが、現在残っているのは山入地区だけです。戦中・戦後途絶えている時期がありましたが、栗城英雄さんたちが中心となって平成2年に復活させました。かつての山入歌舞伎を知る人に教えてもらうことができるギリギリのタイミングだったそうです。
歌舞伎復活の背景には、横田小学校山入分校の廃校がありました。地域のコミュニティセンターでもあった小学校がなくなることで、つながりが失われてしまうのではないかという危機感があったそうです。そこで代わりとなる山入近隣会を設立し、様々な取り組みを行った中のひとつが歌舞伎でした。
歌舞伎を残すことが目的なのではなく、コミュニティをつないでいくための手段のひとつだったという英雄さんの言葉が印象的でした。
榎本さんからは歌舞伎に限らず、演劇やバンド、仮装や演芸会などなど、かつて金山町全体で芸能を楽しんでいた様子を伝える写真が紹介されました。演者も観客もそれぞれの仕方で場を盛り上げ、自分たちのくらしを自分たちで楽しいものにしていく、その豊かさが伝わってきます。


手仕事も温泉も芸能も「楽しみ」につながります。
衣食住に必須のものではないけれど、それがなくては「生きて」いけないもの。
金山町の人々は「生きる」達人だと感じました。


後半では、これまで対話のリレーをつないできた三島町、柳津町、只見町、昭和村、金山町から関係してくださった方々にご登壇いただき、振り返りが行われました。
メンバーは板橋淳也さん(三島町教育委員会生涯学習課長)、伊藤たまきさん(やないづ町立斎藤清美術館学芸員)、中野陽介さん(只見町役場地域創生課ユネスコエコパーク推進係主査)、松尾悠亮さん(昭和村からむし工芸博物館学芸員)、五ノ井智徳さん(金山町教育委員会教育係長)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

互いに互いの会に参加してみて気づいたことは、やはり「共通性」と「個性」。
それぞれの地域で大切にしてきた暮らし方や文化は、いずれも後継者問題を抱えていますが、過去から現在まで形を変えながら伝えられてきた価値観を、何らかの形で未来につなぐ必要性をどの町村も切実に感じ、方法を模索しています。
それぞれの町村に独自の強みと得意分野があり、それを担う文化施設があること、他の町村の良さを自分の町村に取り込むにはどうしたらいいか、モノを残すだけでなく知識や思いを残すことの大切さ、こことそこがつながったらもっと面白いことができるのではないか。この連続ディスカッションに参加して様々な気づきがあったと登壇者から発言がありました。


第1回の三島町で、「各地のミュージアムは産土になれるか」という問いが講師の赤坂憲雄氏よりなされましたが、その種が芽生え始めていると感じられる最終回だったのではないでしょうか。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

プログラム開発の一つ「地域のアイデンティティと文化資源」では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


12月15日、大堀相馬焼窯元「いかりや商店」の山田慎一さんと、山田さんのもとで働いていらっしゃる浪江町地域おこし協力隊の吉田さんにお話を伺いました。


同行していただいたのは、LMN実行委員会委員でもある白河・EMANONの青砥さんと、「ふるさとキャンパス」で白河に滞在中の大学生3名、そして同プログラムのオブザーバーをなさっている江田さんです。
大学生の皆さんは東京から白河に来られて4週間滞在し、明日または明後日東京に戻る、という最後のタイミングで山田さんのところで陶芸体験をすることになったそうで、LMNのインタビューにも参加していただきました。
若々しい顔ぶれが新鮮です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

山田さんは、大堀相馬焼の窯元の13代目。東日本大震災後、東京などでの避難生活を経て白河市に移り、2013年に白河市内に工房を開設しました。
山田さんへのインタビューでは、震災後の白河での生活や仕事のこと、大堀相馬焼に対する思い、また地域おこし協力隊の受け入れや後継者育成についてお話いただきました。
大学生の皆さんからも、大堀相馬焼を今後どのようにアピールしていきたいかなど、興味深い質問が挙がりました。


山田さんのもとで働いていらっしゃる吉田さんは、兵庫県出身。大学で陶芸を専攻され、卒業後に浪江町地域おこし協力隊として来られて、もうすぐ3年になるそうです。
数ある産地の中から大堀相馬焼を選んだ理由のひとつが、大堀相馬焼の特徴でもある「二重焼」だそうで、二重焼なら器が二重構造だからロクロをひく回数が二倍になるため技術を磨くのに良いと思われたとのこと。
作り手ならではの着眼点ですね。
師弟の関係にある山田さんと吉田さん。これからの大堀相馬焼を担っていく吉田さんの今後の計画についても(一部はまだ秘密だそうですが)いろいろ話してくださいました。


陶芸体験では、山田さんと吉田さんが作り方を丁寧に指導されていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白河に来られてから地元の小中学校の児童・生徒に陶芸を教える機会もけっこう多いそうで、お二人が大堀相馬焼を通じて地域との繋がりを作ってこられた姿を垣間見させていただいたような気がしました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

プログラム開発の一つ「地域のアイデンティティと文化資源」では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


12月10日、実行委員会委員の岩手大学の福留邦洋先生と二本松市に避難されている浪江町のみなさんの「コスモス会」にお邪魔し、みなさんにとっての「大堀相馬焼」について教えていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コスモス会では、毎月1回、集まったメンバーで近況報告などをお話しして過ごされているそうです。
今年最後となった今日のコスモス会はクリスマスと忘年会を兼ねたようなもの?!
和やかにお話しされている所、お時間をいただきました。


「みなさんのお宅に大堀相馬焼はありましたか?」
そんな質問からはじまったフリーヒアリング(?)は賑やかな時間となりました。
ご実家が大堀地区で、窯元さんがご近所だった方は大堀相馬焼が故郷の象徴のようと話してくださいました。
避難後の家にもたくさんの大堀相馬焼を置いているそうです。
引き出物や記念品としてもらうことが多かった人、多数。
「もらってもしまっておいたり、飾っておいたり。普段には使わなかったよね〜」という人も多数。
暮らしの中で大堀相馬焼が用いられていたのは、神棚や仏壇前の花瓶としてが多かったようです。神様、仏様に差し上げる植物をいける特別な器だったのですね。


もう一つの暮らしの中の定番は大堀相馬焼の特徴の一つである二重焼の湯呑み。
こちらは「二重焼きは洗いにくくって」という厳しい声多数。台所を預かる女性陣らしいコメントです。洗い方も身振り手振り教えてくださいました。


2011年までは大堀相馬焼に特に興味はなかったけど避難してから、浪江の大切な文化なんだと気になるようになった方も。
二本松市内にあった大堀相馬焼の工房で求めたグラスと鉢は今もお使いになっているそうです。
避難先で新たな生活を立てる方もいる中、子どもたちの世代に「大堀相馬焼」が伝わっていかないのではないか、という心配のお声も上がりました。


「楽しくお話しさせてもらってありがとう〜」と言いながらお帰りになる笑顔にホッとしつつ、
浪江町のみなさんにとっての「大堀相馬焼」を調べ、まとめる本プロジェクトが、少しでもお役に立てるようにと決意するリサーチになりました。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」モニターレポート

2020年11月14日(土)、昭和村の喰丸小学校で開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。

レポート1 林あゆ美「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」に参加して

展示してあった民具がどうつくられてきたか、どのように使われてきたかを知ることは未来へのバトンのようにも思えました。わが家は農家ではありませんが、周りに田んぼが多いので、わらは身近に見られます。そのわらでこれだけの民具がつくられてきたのかという驚きは冒頭にも書いたのですが、とにかく強い印象が残りました。折しも県立博物館の民具室のポイント展でもわら細工が展示されていたので見てきました。本当にわら細工は美しい実用品です。
回を重ねる毎に自分の引き出しが増えてきて、周りにあるものを見る目が変わり、得られる情報の質も変わってきています。民具がコミュニケーションツールにもなるということは自分にとって新しいことでした。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」レポート

民具でも写真でも全てのことに共通する、残すということの意味を改めて感じさせてくれるお話しでした。しかしやはり今回の保存というテーマでも経済性ということが必ず付き纏い、他のものとの喫緊な重要性を比べられると、続けていく事が難しいのは確かです。そのためにただ保管するのでなくどう活用し、存在意味を持たせるかということが大きな事なのかと聞いていて感じました。写真の話に戻ってしまいますが、「写真は見てもらうことで初めて存在する」というある方の名言を思い出します。存在するということは、人に認知してもらうということと同義ということですね。(抜粋)

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NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第3回「奥会津の森を活かす」モニターレポート

2020年10月24日(土)、ただみ・ブナと川のミュージアムで開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第3回「奥会津の森を活かす」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。



レポート1 林あゆ美「奥会津の森を活かす」に参加して

只見の山を眺めるのはとても好きなので(山登りの体力はなく……)、雪崩によって作り出される地形というのを教えてもらい、帰りは新しい目をもらって山をみることができました。いままで知らなかったことを知り、自分の眼がバージョンアップされる感覚というのは、この「奥会津の周り方」に参加する醍醐味です。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「奥会津の森を活かす」レポート」

ディスカッションを聞いて全体的に、今私たちの手元にあるものを見直すことの重要さを感じました。新しく何かを作ることが発展と思われがちですが、もともとただでいただいて今そこにあるものを使えばいいのだという意識の問題だと感じました。まさに森林のような、自然からいただいている財産です。経済性と合い入れないということが必ず言われますが、ただ意識を転換するだけのことです。それだけなのにどうして実際の生活に生かされないのか、ということを考えさせられるディスカッションでした。(抜粋)

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NEW 県外事例調査(伊賀市島ヶ原)

県外のリサーチが続きます。


今回は三重県の伊賀、島ヶ原へ。


ここで行われている「蜜ノ木」という活動について、実行委員会委員の佐藤さん(アーツカウンシル東京)とともに、
活動を島ヶ原のみなさんと立ち上げ、継続している作家の岩名泰岳さんと、蜜ノ木メンバーであり奥様の岩名江里子さんにお聞きしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

まずは「蜜ノ木」の拠点の一つでもある岩名さんのアトリエへ。
ここで「蜜ノ木」立ち上げから現在までをお聞きしました。
2004年に伊賀市に合併した旧島ヶ原村。
合併により島ヶ原の記憶がなくなってしまうことを恐れた中学生の岩名さん。
島ヶ原の記憶を残す手段として「絵」を認識します。
描くことをはじめてしばらくした高校1年生の時。
駅で伊賀市(旧上野町)出身の具体美術協会で活動した画家・元永定正に出逢います。
その後、元永が教える成安造形大学に進学、さらに現代美術を学ぼうとドイツへ留学。


留学2年目に日本では東日本大震災が起きました。
東日本大震災により島ヶ原に戻り社会に関わりながら制作することを決意。
島ヶ原に戻った後に、地元の同級生たちと地域のために何かできればとはじめたのが「蜜ノ木」でした。
「蜜ノ木」には様々な属性の20代から30代の若者が集まりました。
島ヶ原の歴史を調べたり、展示をしたり、トークイベントをしたり。
島ヶ原の中核をなす観菩提寺の修正会の新たな講となったり。
コロナ下では疫病退散の願いを込めて有志と島ヶ原の石仏やお寺めぐりもしていたそうです。


あらましをお聞きした後に出かけたフィールドワークではまず観菩提寺へご案内いただき、
堂守であり島ヶ原地域まちづくり協議会事務局長の山菅さんにお話をお聞きしました。
地域のみなさんの敬愛を受ける観菩提寺。
三十三年に一度ご開帳となる十一面観音菩薩立像を安置する本堂では、毎年2月に地域の複数の講が参加する修正会が行われていますが、近年、担い手不足が危惧されていたこと。
蜜ノ木講が新たに生まれ、さまざまな人が関わるようになったことなどを教えていただきました。


その後、観菩提寺の裏の観音山へ。
道に沿って大正時代に設置された石仏は西国三十三所巡礼の写し霊場になっています。
ここもまた岩名さんたちの興味の対象になっているよう。
続いて、島ヶ原内の行者堂や磨崖仏などにもご案内いただき、京都・奈良にも熊野にも伊勢にも遠くない伊賀島ヶ原の信仰の地としての気配を感じることもできました。


続いて初期の頃の蜜ノ木の拠点だったアトリエエコノミーへ。
元郵便局員だったアマチュア画家が地域のみなさんとの交流の場にもなればと手作りしていたアトリエ。
使用する前に元郵便局員さんがお亡くなりになり、しばらく放置されていたのをドイツから戻った岩名さんが使うことに。
手入れや掃除をすることが、蜜ノ木誕生前史であったそうです。
現在は蜜ノ木メンバーのお一人が制作で活用されていました。


そして再び現在の拠点・岩名さんのアトリエへ。
蜜ノ木の現場を巡った後にあらためてお話をお聞きしました。
農業や温泉業などさまざまな職種のメンバーによる蜜ノ木。
集まるだけだったり、土地のことを調べたり、あらためて歩きながら地域を探検したり、お寺の行事に本気で参加したり。
好きな時に、好きな内容に参加し、蜜ノ木メンバーであることは「各自の自称」。
ゆるやかなそのあり方は「文化系の青年団」と岩名さんは言います。
独立性の高さを保持した、アートプロジェクトでも事業体でもないそのあり方は他に類例をみないものです。
合併による地域の喪失感から端を発した(とも言える)蜜ノ木は島ヶ原の「記憶の記録」から発展して、
メンバーそれぞれのやり方で島ヶ原を「創造」しているように感じられました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

プログラム開発の一つ「地域のアイデンティティと文化資源」では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


亀田さんと浪江町大堀の松助窯を訪ねるより一足先に、亀田さんが現在拠点にされている大分県別府市の工房にお邪魔してきました。
この時も、LMN実行委員会委員でもある白河・EMANONの青砥さんにご一緒いただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

震災後、ご家族で神奈川県に避難した後、大分県内に妹さんが住んでいらしたご縁もあって別府市に移られた亀田さん。
別府湾が見渡せる気持ちの良い丘に、亀田さんの新しい工房はありました。


工房は、内装から作陶の道具ひとつひとつに至るまで、不思議な統一感があって、亀田さんのスタイルが隅々まで浸透しているのが伝わってきます。
ご実家が窯元だったため、震災がなければこんなふうに工房を自分の好きなように一から作ることはなかった、と仰っていたのが印象的でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

工房の一角の展示室で、大堀のこと、震災直後のこと、別府に移られてからのことなど、お話を伺いました。
別府に来られて工房を建てる間にも様々なご苦労があったそうで、「震災に遭ったけれども新天地でがんばっている陶芸家」という一言ではとても表せないストーリーがあるのだということを改めて実感しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

亀田さんの工房でひときわ存在感を放っていたのが煉瓦製の薪窯。なんと手作りの薪窯です。大堀の松助窯に残るお父様が作られた登り窯での作陶の記憶があったからでしょうか。やはり薪窯で器を焼きたい、という強い思いがあり、ご自身で煉瓦を組み上げて作ったそうです。
かなりの重労働だったとのことですが、薪窯が完成した時に、「復興した」と感じられたそうです。


亀田さんは震災以前から、いわゆる伝統的な大堀相馬焼タイプの器ではなく、ご自身のオリジナルの作品を作っていた陶芸家さんです。
それでも、制作の参考になるからと、大堀に一時帰宅した際に持ち帰った古い大堀相馬焼が、展示室の棚に静かに置いてありました。
「父が残してくれた古い大堀相馬焼を通して、父と対話している」という亀田さんの言葉に、大堀相馬焼とは何か?という問いに対するひとつの答えがあるような気がしました。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」

11月14日(土)、銀杏が美しい昭和村の喰丸小学校で、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第4回「民具整理から見えてくる奥会津のくらし」を開催しました。

奥会津各町村ではくらしの道具「民具」が収集され、それぞれに活用の仕方を模索しています。
そのヒントを探すべくディスカッションが行われました。


福島県立博物館学芸員の山口拡さんからは、全国的に民具コレクションが散逸・廃棄の可能性にさらされている現状が紹介されました。地域の文化を観光に活かすことが求められていますが、地域の文化を知ることは誰のためなのか、そこに博物館が果たす役割は何なのか。それを探るためにも、体験で語ることができるコミュニケーションツールとして民具を見直すことが提言されました。また、今年度LMNで試行している奥会津各町村の特徴を備えた民具キットつくりについてもご紹介いただきました。


昭和村からむし工芸博物館学芸員の松尾悠亮さんからは、昭和村における民具活用の事例をご報告いただきました。からむし工芸博物館では、昭和村で作られるからむしを伝えるため布づくり実演や地機講習会を行っています。博物館で展示されている糸づくり・布づくりの道具が今も現役で使われていることを来場者に見ていただくことで、来場者と昭和村の人々との交流の場となっているそうです。また地機講習会は楽しいお茶の時間も設け、そこで交わされる会話から、松尾さん自身、様々なことを教えてもらう場になっているそう。民具や手わざが「場」となる実例をご紹介いただきました。


NPO法人20世紀アーカイブ仙台副理事長の佐藤正実さんからは、仙台で行っている写真や映像のアーカイブ活動についてご紹介いただきました。資料としてミュージアムに収蔵されている写真・映像が、佐藤さんたちNPO法人と連携することで生きた素材となること。アーカイブとは過去と現在との経験の同期であり、未来へのプレゼンであること。たった一枚の写真から引き出される記憶の豊かさ、そこにそれを知らない世代が関わることで生み出される双方の驚き。アーカイブとはそれ自体が目的なのではなく、そこから発生する他地域・多世代間の交流こそが大切であること、またその交流を生むための仕組みつくりが肝要であることを教えていただきました。


後半の全体でのディスカッションでは、民具・映像と素材は異なりますが、ともに語りが生み出される「場」となりうることが語られました。「これ何だろう?」から対話が生まれ、わかってくるプロセス、結局わからないプロセスともにとても創造的であること。答えが出ないからこそ語り続けられるという仕組みの面白さ。


「モノ」ももちろん大切ですが、「モノ」が生み出す「場」の可能性について対話することができた第4回でした。

NEW 県外事例調査(島根県大田市)

世界遺産に認定されている島根県石見銀山。
その中心的商家だった熊谷家住宅が一般公開されています。


市から指定管理を受け、熊谷家住宅の保存管理、展示、解説、各種行事の運営を行っている合同会社「家の女たち」代表の太田洋子さんに、ご案内いただき、お話しをお聞きしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成13年、熊谷家住宅の一般公開に向け、膨大な家財の調査が行われました。
その時、京都女子大学教授・小泉和子さんの指導のもと、家財の運び出し、調査にあたったのが、太田さんを含めた地元の主婦7人でした。
作業は長年しまわれていたことによる汚れを、ひたすら掃除することから。そこに主婦の力がいかんなく発揮されたといいます。
掃除の後は、家財を分類し調査カードを作成。
先生の教えのもと調査を行ううちにどんどん興味をもち、図書館に通ったり、遠方の講演を聞きに行ったり、自分たちで調べることが楽しくなったそうです。
最初の3年間は掃除・資料整理にあたり、後の2年間でその成果を報告書にまとめられました。
報告書を見せていただきましたが、写真とともにとてもわかりやすく作られており、この報告書をもとにいつでも資料が探し出せるようなっているとのことです。


また、古い布団や端切れを利用して、訪れる人のための座布団や、展示用の再現料理をすべて手作りで行ったそうです。
細かく繕った座布団や、美しく彩られたお料理に何とも言えない温かさを感じました。


7人の主婦たちはパートという雇用形態でこの作業にあたりました。
通常のパートタイムよりも朝は遅めで、夕方は早めに時間が設定され、都合によって休みをとりやすい仕組みになっていたため、主婦にとって非常に働きやすい環境だったそうです。
興味や熱意があってもボランティアでは続かない。賃金という下支えと、働きやすい仕組み設計があったことが、5年にわたる調査研究がよい形で続いた理由のひとつとお聞きしました。
現場の力と行政の制度設計がうまくかみ合った事例ではないでしょうか。


いよいよ公開という段になり、「熊谷家の家財のことを最もよく知っているのはあなたたちなのだから、展示の案内もあなたたちがするのが一番」という小泉先生の言葉により、資料整理にあたった主婦たちが展示案内・解説、四季折々のイベントの運営にあたることになったそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

イベントや小学生の昔の暮らし体験では、台所の竈に火が入れられて米が炊かれ、手料理が振舞われます。「文化財」として保存されるだけではなく、まさに「活用」されています。
そこには、世界遺産に認定され一時増えた観光客が落ち着いたとしても、ここ熊谷家住宅はしっかりと教育施設として地元に定着していくべきだという公開当初からのビジョンがあったといいます。


平成23年には任意団体「家の女たち」を結成し、市の指定管理を受けるようになりました(現合同会社「家の女たち」)。
「家の女たち」という言葉は、「家刀自」に由来するそうです。
家の一切をきりもりする一家の中心である女性。
彼女たちが家刀自としてその家に住んでいるかのように、日々の掃除を行い、竈に火を入れ、季節の花を飾る。
そのように運営されることで、熊谷家は生きた家として呼吸しているように感じられました。


「家の女たち」代表の太田さんは、小泉先生、熱意のある行政担当者との出会いは、本当に「ラッキーな出会い」だったとおっしゃいました。
しっかりとしたビジョンのもとに、厳しく温かく指導してくださる小泉先生、
その意志を理解し実現するために、予算的な裏付けや制度設計を行う行政、
何よりも楽しんでそれを形にする「家の女たち」。


このようにうまく行く事例はもしかしたら少ないのかもしれません。
ですが、古民家に限らず、地域の民俗資料館や伝統の技を伝える施設など、「文化財」を生きた家・施設・技として「活用」するために、ひとつひとつ大切にしたいことばかり教えていただきました。
お話しをお聞かせいただいた「家の女たち」代表の太田さん、スタッフのみなさん、ありがとうございました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

浪江町のみなさんにとっての大堀相馬焼の姿を浮かび上がらせようとしている本事業。


今回は、現在は別府を拠点として制作活動をされている亀田さんに、ご実家である浪江町大堀の松助窯を見せていただきました。
LMN実行委員会委員でもある白河・EMANONの青砥さんもご一緒です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

展示会場でありろくろをひく工房でもあった自宅。
たくさんの人が訪れただろう趣のある店舗。
錆びた電気窯や、釉薬をかけられるのを待つ素焼きの器、ポリバケツの釉薬などがそのままな作業場。
かつての賑わいを伝える梱包・発送用の作業場。
お父様が作った登り窯。
敷地内にあるいくつかの場所を案内くださり
ここで何をしていたのか、どんな場所だったのかを
教えてくださいました。


現在も帰還困難区域である浪江町大堀地区。
10年という時間はやはり短くはなく、震災時の破損だけではない影響がそこかしこに見られました。


亀田さんの「ここに来ると自然の生命力を感じざるを得ないんですよね」という言葉は、
人の暮らしとは自然の力といかに共存できるかの試みの連続であることを教えてくれます。


煉瓦が崩れた登り窯でも、お父様が作られた自宅内の工房でも、家族以外の人も働いていた作業場でも、
亀田さんは亀田さんの中だけにあるその場の記憶を確かめるように私たちに説明を続けてくださいました。
以前一時帰宅した折には、登り窯で「別府で頑張るから」と伝えたのだということも。


亀田さんにとってこの場が、大堀相馬焼がどんな存在であったのか。
亀田さんが私たちに教えてくださったことをしっかりと受け止めて伝える。
それが、私たちにできることだと考えています。


LMNでは亀田さんの現在の拠点・別府の工房でもお話しをお伺いました。
詳細は後日、間も無くご報告します。

NEW 県外事例調査(舞鶴)

実行委員会委員の丸木美術館の岡村さんにご一緒いただき、舞鶴リサーチを行いました。


まずは、舞鶴引揚記念館へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


山下館長と学芸員の長嶺さんにご案内いただきながら展示室を観覧。
舞鶴引揚記念館は、シベリア抑留や引揚の歴史、そして平和の尊さを伝える記念館として昭和63年(1988)に開館。
開館にあたっては、引揚者をはじめ多くの方からの寄附がきっかけと経費的な基盤となったそうです。
その後記念館としての活動を続けてきましたが、戦争の記憶の風化が進む中、記念館の再生をかけて運営を指定管理から市直営に戻し、若い世代への継承を念頭に平成27年(2015)にリニューアル。
同年、同館が所有する引揚に関する資料570点がユネスコ世界記憶遺産に認定されました。


常設展示室は太平洋戦争から満蒙開拓、シベリア抑留までを伝えるコーナーと
終戦後、引揚港の一つとなった舞鶴の戦後、待ち続けた人、迎えた人を伝えるコーナーに大きく分かれています。
展示室は戦争に馴染みのない世代にも受け入れられやすいようにと明るい空間を意図したそうです。
白を基調とした展示室に並ぶ展示資料はそのような空間だからでしょうか、
静かに戦争の悲惨さと平和の大切さ、亡くなった方への悼みを伝えてくれるようです。


印象的な資料はいくつも。一つご紹介します。
満州で中国の方からいただき、途中危ない時は身につけて中国人のふりをするようにと荷物の中に入れて引き揚げて来たという中国服。
美しい青の繻子地は痛み一つなく良質な服を分けて下さった方の思いも、ずっと大切にしてきた方の思いも伝わります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シベリア抑留の辛苦、生き延び帰国しようとしてきたことを伝える数々の資料の中で、
ひときわ目を引いたのは、抑留経験者が自ら下絵を描き、作ってもらったという再現の人形たち。
痩せこけた体、辛い表情。
収容所の空間を再現した部屋の資料は全て手で触れてよく、毛布の薄さ、木の床の硬さを実感できました。


リニューアルにより新たに設けられた引揚と舞鶴の歴史のコーナーでは、
長い時間日本を離れ不安を抱え帰国した人々を舞鶴の人々があたたかく迎えたことがわかります。
舞鶴という土地の誇るべき歴史を伝える大切なコーナーです。


観覧後は、山下館長、長嶺さん、
そして展示室での案内を行っている語り部の皆さんの代表・NPO法人「舞鶴・引揚語りの会」の宮本理事長にお話を伺いました。
ユネスコの世界記録遺産になったことにより、市民の引揚への意識が、マイナスからプラスに転じたこと。
近隣の中学生たちや東京の高校生など若い世代が語り部に自ら参加してきていること。
記念館の誘導ではなく生まれている対等な地域との協働、引揚者、抑留経験者の高齢化が進む中での語りの会の事業の意義、語ることが自分たちの「誇り」であるということ。
地域の歴史を現在に受け継ぎ、未来に渡そうと記念館だけでなく地域の人々と取り組んでおられる事業の数々は、福島にとってもとても参考になるものでした。


最後、記念館に隣接する公園をご案内いただき、高台から、たくさんの引揚船が目指してきた船着場跡を教えていただきました。
入り組んだ入江を持ち周囲を山に囲まれた舞鶴湾はとても穏やかで、
ここに船が入った時に乗船している人たちがどんなに安堵しただろうかと想像されました。

NEW プログラム開発「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」リサーチ

ライフミュージアムネットワーク2020の取り組みのひとつ、「地域のアイデンティティと文化資源」をテーマとしたプログラム開発では、浪江町の伝統的工芸品・大堀相馬焼(おおぼりそうまやき)を取り上げています。


江戸時代・元禄年間の開窯から300年以上にわたり、途絶えることなく作られ続けてきた大堀相馬焼。
その中心産地である浪江町大堀地区は、2011年3月の東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故で被災し、大堀相馬焼のすべての関係者が産地外への避難を余儀なくされました。
大堀地区は現在もなお帰還困難区域に指定されています。


これまでのリサーチでは、大堀相馬焼の窯元や職人、作家、組合関係の方々などを中心に、福島県内は南相馬市や新地町、県外は栃木県、東京都、長野県、大阪府、そして大分県と、それぞれの移住先を訪ね、お話を伺ってきました。
震災前までの暮らしはどのようなものだったのか。
大堀はどんなところだったのか。
大堀相馬焼はどのような存在なのか。
移住先では何があったか。
復興とは何か。


リサーチを通して見えてきたのは、「震災で大変な目に遭ったけれども新天地でがんばっている福島の伝統工芸関係の人々」という、ステレオタイプなひとことでは到底括ることができない、個々の物語でした。


たとえば窯元であっても、震災後、新たな場所で大堀相馬焼を作り続けている方、大堀相馬焼ではなく自身の作品を制作している方、器以外の別のものを作り始めた方、そもそも大堀にいたときからいわゆる大堀相馬焼は作っていなかった方など、その再開のかたちや考え方はさまざまです。


遠くは九州まで広範囲に及ぶ調査を、多様な立場の方々を対象に、中立的な見地に立って実行できるのはライフミュージアムネットワークの事業ならではのことです。


大堀相馬焼とは何か?という問いに対する答えは、ひとつの言葉で表せるものではありません。
捉えがたいその姿を目に見えるものにするために、個別のリサーチを積み上げてアプローチしていくことが必要です。
今後は、大堀相馬焼の作り手だけでなく、大堀相馬焼を使っていた地元・浪江町の方々や、コレクター、研究者、学校関係の方々などにもお話を伺っていきます。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第2回「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」モニターレポート

2020年9月19日(土)、やないづ町立斎藤清美術館で開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第2回「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。

 

レポート1 林あゆ美「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」に参加して

地域の行事を継続していくには、時間と人付きあいの折り合いが必要です。フルタイムの会社員をしていると、時間を捻出して参加するのが難しい。村の爺様たちと付き合っていくのも、なかなかに大変です(笑)。私など何をしても叱られてばかりで、へこんだものです。それでも、知らない世界は新鮮ですし、受け継ぐことの大事さも感じます。久しぶりの村役員の今年も、関わり始めるとおもしろい事も多いです。子どもは少なくなり子ども会はなくなり、村の人たちも多くの人は積極的に行事や村作業に関わるわけではありません。けれど、まずは役員の時くらい自分にできることをしようと思っています。
幸せに生きていくことは、住んでいる地域と繋がることにもある。金子さんの話を聞いて、ますますそう思いました。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「柳津町レポート」

題名からはあまり想像できなかった今回の柳津町のテーマは、私なりに「小さなそれぞれ視点から大きなものを見る」ことではないかなと勝手に解釈しました。個々の家の宝から見えてくるもの、自然栽培から見えるてくるもの、藁から見えてくるもの。別のものを見ていても、その先に見えてくるものは共通している感じがします。奥会津でどのようなことが大切なのか、これから大切にしていかなければいけないのか。小さな視点、例えば私の個人的な視点でも重要になるのかな、と思えるような今回のオープンディスカッションでした。(抜粋)

本文はこちら

NEW 「地域資源の活用による地域アイデンティティの再興プログラム」活動報告1「10年間ふるさとなみえ博物館」展示作業

ライフミュージアムネットワーク2020では、今年度からの新たな取り組みとして3つのプログラム開発を行っています。

ミュージアムが持つ文化資源を活用し、ミュージアムが新たな機能を果たすモデルとなるような取り組みを
「ミュージアムのソーシャルインクルージョン」
「民具と地域とコミュニケーション」
「地域のアイデンティティと文化資源」をテーマに考えました。


「地域のアイデンティティと文化資源」をテーマとしたプログラム開発では
東日本大震災とその後の東京電力福島第一原子力発電所事故により全町避難となった浪江町の伝統工芸・大堀相馬焼を取り上げています。
大堀相馬焼の窯元や浪江町の皆さんなどにとって、大堀相馬焼、大堀相馬焼を産んだ浪江町がどのような存在なのか。
リサーチとインタビューを重ねています。

 


2011年に浪江町役場が二本松市に避難したことに伴い、二本松市内の廃校となった校舎を借りて浪江町立浪江小学校と津島小学校が再開。
離れて暮らさざるをえない故郷を子どもたちが学べるようにと「ふるさとなみえ科」という授業を行なってきました。
授業には、同じく二本松市内に避難していた大堀相馬焼協同組合にご協力いただいて、大堀相馬焼の製作体験も含まれていました。
時に保護者の方をお招きして一緒に作った大堀相馬焼をはじめ、浪江町の郷土料理、お祭りなどの調べ学習は、やがて子どもたちにとってもう一つの故郷となった二本松市への学習へと繋がり、子どもたちは、浪江町と二本松市の架け橋となることを自覚しながら学習を積み重ねてきました。
昨年度、浪江小学校の最後の児童が卒業し、今年度、最後の児童となった津島小学校の6年生・須藤君が先輩たちの思いを形にして残そうと博物館作りを校内で行なっています。
もちろん、大堀相馬焼も展示されます。

この日は、須藤君が命名した「10年間ふるさとなみえ博物館」の第一次展示作業。
これまでに用意した資料カードのコピーを使い、須藤君が考えていた展示室の図面をもとに一つ一つの資料への須藤君の考えを聞き、それを伝えるにはどのように展示したら良いか相談しながら作業をしました。
今後、仮展示への手直し、館長こと須藤君のあいさつパネルなどの準備も行いながら年度末の完成を目指します。

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第3回「奥会津の森を活かす」

10月24日(土)、連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第3回「奥会津の森を活かす」を、ただみ・ブナと川のミュージアムで開催しました。
様々な立場から奥会津の森に関わるみなさまにお集まりいただき、「森とともに生きる」ことについてディスカッションを行いました。


昭和村地域おこし協力隊の押部僚太さんは昭和村の民具整理に携わっておられます。
山仕事に関わる道具のみならず、ほとんどの物が木でつくられています。材の特性を知り抜いた上で作られた道具の使い勝手のよさ、自分で山からとってきた材で自分の使う物を工夫して作る楽しさをお話しいただきました。すりこぎなど、料理に関わる道具には、健康によい材や風味をよくする材が使われていることは驚きでした。一方で先人の知恵が失われつつあること、今聞き取りをしておかなければならないこともお話しいただきました。


五十嵐健太さんは、アイパワーフォレスト株式会社に所属し、林業という立場から森に関わっておられます。身近な森を手入れし、生活の糧を持続的に得ていくあり方から、売れる・売れないという経済を優先する見方に変わり、森が放棄され荒れていく。また、気軽に植えた木が手に負えなくなったという理由で、伐採を依頼されるケースも増えているとお聞きしました。そのような中、五十嵐さんが講師をつとめる山学校では、木や森に敬意を持ちながら、安全に手入れしていく方法を森林初心者に伝える活動をします。


中野さんは只見町役場で只見のブナ林をユネスコエコパークに登録・活用する事業に携わり、森林の保全にも当たられています。只見の自然が生み出す特徴的な植生や景観、雪と深く関わった森林活用の形、人々の営みについて教えていただきました。


後半ではモデレーターとして本間宏さん(福島県文化財センター白河館参事兼学芸課長/LMN委員)にお入りいただき、会場も交えてのディスカッションを行いました。
本間さんからは、森林を守り活用していくことと文化財を守り伝えることの近しさが指摘されました。
いずれも現在の経済制度にのっていかない部分だとしても、それらは自分たちが生かされている風土をつくるもの、ただ消費していいものではなく未来の人のためのもの。
経済とは異なる価値観をもって、森とともに生きるあり方をもう一度考えたい、と参加者の方からもお声をいただきました。
経済制度との折り合い、継承者の減少など、さまざまな課題はありますが、
多様な観点から語り合う場が、一つのスタート点になればと思います。

NEW 「多様なニーズに応えるミュージアムの利活用プログラム」活動報告3「おしえて!アクアマリンふくしまってどんなとこ?」ビデオレター作成

「多様なニーズに応えるミュージアムの利活用プログラム」の試み第3弾として、
11月4日(水)に「おしえて!アクアマリンふくしまってどんなとこ?」を行います。

会津支援学校中等部3年生のみなさんに、当日アクアマリンふくしまをお届けするため、
10月7日(水)にビデオレターを撮影してきました。

「おしえて!アクアマリンふくしまってどんなとこ?」では、
これまで行ってきたオンラインでミュージアムとつなぐ学習ではなく、アクアマリンふくしまの紹介をビデオレターでお届けします。
しかし、それだけではちょっとつまらない!工夫が必要です。
そこで、当日はジャジャーンとある人が登場したり、
凶暴と思われている生き物を触ってみたり、
生のアジをさばく!?
などなど、福島の豊かな海を、海のない会津に届けます。

お楽しみに!

 

NEW 「多様なニーズに応えるミュージアムの利活用プログラム」活動報告2「おしえて!アクアマリンいなわしろカワセミ水族館ってどんなとこ?」

「多様なニーズに応えるミュージアムの利活用プログラム」の試み第2弾として、
9月23日(水)、「おしえて!アクアマリンいなわしろカワセミ水族館ってどんなとこ?」を行いました。

会津支援学校中等部1年生は、9月30日(水)にアクアマリンいなわしろカワセミ水族館に遠足で訪れます。
その事前学習として、オンラインでカワセミ水族館を紹介するプログラムを実施しました。

初めて訪れる場所を、当日安心して楽しむことができるように、
カワセミ水族館はどんなところか、どんな生きものがいるのか、画面の向こうからカワセミ水族館の平澤桂さんに教えていただきました。

動物たちを画面に映しながら、カワウソの特徴や、外来種のブラックバス、在来種のゲンゴロウについてとてもわかりやすくお話しいただきました。

カワセミ水族館からは、事前にカワウソのメスと同じ重さのぬいぐるみとゲンゴロウの標本をお借りし、教室での体験も行いました。
カワウソの意外な重さには、みなさんとても驚いたようです。

私たちスタッフもカワセミ館手作りのグッズでカワウソ君とゲンゴロウ君になりきり、一緒に学びました。

9月30日、実際の遠足にもお邪魔しました。
カワウソ水族館に入ってすぐに、カワウソの水槽に駆け寄る生徒さんたち。餌やりが始まると「かわいい~かわいい~」の声が響きました。
次はブラックバスやゲンゴロウの水槽へ。
「これ前みたのだ!」「こっちはオオグチバス」「こっちはコグチバス」「見つけた!ゲンゴロウの小さいのだ!」「いっぱいいっぱいゲンゴロウ!」など、何度も何度も口に出して水槽をのぞく姿がありました。

 

NEW 「多様なニーズに応えるミュージアムの利活用プログラム」活動報告1「届けよう!ただみ・ブナと川のミュージアム」

ミュージアムは本来、年齢・性別・国籍・信条を異にするどなたでも利用できる文化施設です。
さまざまな人々が学びを通じて、出会い、交流する開かれた場でもあります。

しかし、一度も足を運んだことがないという方も多くいます。
その中には、心や身体の状態から来館が難しい方もおられます。また、コロナ禍の環境にある中で行きたくても行けない方々もうまれてしまいました。

そこで、このプログラムでは、福島県立会津支援学校中等部の生徒のみなさんと各ミュージアムと連携し、来館が困難な方々にミュージアムを届ける試行を行っています。

ミュージアムがみんなのものであるために何ができるのか。
ミュージアムはみんながわくわくする、元気になる場所だと知っていただくきっかけを考えていきます。

その試みの第1弾として
9月17日(木)、「届けよう!ただみ・ブナと川のミュージアム」を行いました。

会津支援学校中等部2年生のみなさんが3グループにわかれ、1校時ずつ3回に分けて参加してくれました。

会津支援学校とただみ・ブナと川のミュージアムをオンラインでつなぎ、双方向のやりとりをしながらミュージアムを紹介していきました。

ただみ・ブナと川のミュージアムからは、事前にブナの木や葉、実、ブナでつくったコウシキ、熊の毛皮をお借りして、
遠く離れたブナと川のミュージアムの指導員・太田祥作さんの説明をオンラインで聞きながら、実物を触ったり、においを嗅いだり、何に使うか想像したりしながらプログラムを実施しました。

そこには、みんなの「気になる!」「これ何ですか?」「ちょっと怖い」「触ってみたい!」がたくさんありました。

オンライン解説と実物の体験を通して、支援学校のみんなの心はただみ・ブナと川のミュージアムに行っていたのかもしれません。

 

 

 

 

 

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第2回「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」

9月19日(土)、連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第2回「清の眼 根っこの眼 それぞれの地域学」を
やないづ町立斎藤清美術館で開催しました。


前半では、斎藤清美術館学芸員の伊藤たまきさん、福島県立博物館学芸員の大里正樹さん、農家民宿山ねこ店主の金子勝之さんから、それぞれの「眼」についてお話しいただきました。
トップバッターは伊藤たまきさん。


柳津町地域おこし協力隊が地域のお宅の大切なもの「家宝」について聞き取りを行い、それら家宝をエピソードや協力隊(実は美大生)の作品とともに齋藤清美術館で展示する「家宝展」について。
いわばよそ者である協力隊が柳津を見る眼差しは、異郷者として柳津を見つめた斎藤清の眼差しと似ているのではないか、異郷者だからこそ見いだせるものがあるのではないか、とお話しいただきました。


大里正樹さんは民俗学を専門とし、柳津の冑中(かぶちゅう)地区のニンギョウマンギョウ(男女の藁人形を作り、悪いものを払う行事)を調査しています。
地区の行事として営々と続けられてきましたが、農業の機械化等により人形作りにかかせない長い藁が入手困難となり、一時は存続が危ぶまれました。その時、藁の調達をしてくれたのが、幅広いつながりを持つ金子さんだったそうです。
行事を続けていくのは地区の方々ですが、それを助け、記録し、後世へと伝えていくためには、外の眼と手が必要なのかもしれません。


金子さんは柳津の砂子原地区にお住まいで、一切農薬や化学肥料を用いない農業を行っています。
砂子原地区は柳津を流れる滝谷川の上流にあるからこそ、下流に悪いものを流してはいけない、という思いがあるそうです。
先人が行ってきたこと、受け継いできた土と水を謙虚に引き継ぎ、そうしてできた野菜を美味しいと言ってもらえることに無上の幸せを感じるとお話しいただきました。


後半は、柳津の土地にしっかりと根をはった金子さんと、異郷者たちが交錯することで起こる化学変化についてディスカッションが展開しました。


キーワードは「謙虚さ」「感謝」「幸せ」。


今はここにいない人、今につながる膨大な時間、
そういった目に見えないものを想像し、敬意をもって受け止め、次に伝える。
それが、ここで生きていくということなのではないか。


最後に金子さんから「蚊燻し」が紹介されました。
会津木綿は最初衣類となり、ぼろぼろになったら雑巾となり、雑巾としても使えないほど擦り切れたら最後は「蚊燻し」になります。
擦り切れた会津木綿を藁で縛り火をつけ、煙で蚊を近づけません。そして最後は灰になり、畑の栄養となります。


その循環。
そうしてつないだ命であるということに感謝する生き方。


それを金子さんに教えていただきました。


斎藤清美術館が
金子さんの根っこの眼と、清の眼=異郷者の眼が交わり、
新しい何かを生み出す場になっていくこと。
その可能性が語られた第2回オープンディスカッションでした。

 

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第1回「文化の泉を掘る~三島町歴史文化基本構想について~」モニターレポート

2020年8月8日(土)、三島町工人の館で開催された、
連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第1回「文化の泉を掘る~三島町歴史文化基本構想について~」にご参加いただいたモニター参加者のレポートを公開します。

参加してみての感想、奥会津に対する思い、課題などについて、多様な視点から語られています。

今年度は新型コロナウイルス感染症の影響から、多くの方にご参加いただくことが難しくなっていますが、
その場で語られたことを、さまざまな形でお届けできればと思います。
ぜひお読みください。

 

レポート1 林あゆ美「文化の泉を掘る~三島町歴史文化基本構想について」に参加して
文化の泉を掘ることは、次の世代である子どもたちにふるさとを残していくことにもつながるという話も出まし た。総合学習で、虫供養などが子どもたちに伝わっていき、夏休みには工芸館で編み組をつくり、自然な形でふるさとの文化が継承されていくのはとても素敵だと思いました。子どもの頃の体験、思い出は、その後の人生の背骨になります。ふるさとの文化が自然な形で体が覚えていれば、離れてもふるさとに戻ってくる道が残され、お守りのような存在になりそうです。(抜粋)

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レポート2 岩波友紀「「文化の泉を掘る~三島町歴史文化基本構想について」に参加して
町の活性化に躍起になる場合、何か新しいことを始めることが多く行われたり、それでも今では地域の文化を「売り」にする試みは全国的にありますが、50年も前から三島町では地域の文化に目をつけ守り続けてきたことを知り、その先見の明に驚きでした。さらに町民が意識せずに民俗文化を大切にしていることは、その歴史の長さゆえの結果であり素晴らしいことだと感じました。こういった地域の民俗文化は、意識するものでなく生活の一部であったものです。同じように継承され続けていても、どれだけ「保存しよう、やらなきゃ」と意識することなく、自然に行われるかというのが根本的に意味のあることだと改めて感じました。その「意識しない感」は三島町ではどの程度なのかを、深く知りたかったです。(抜粋)

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レポート3 青木慎太郎「モニター参加者レポート」
「奥会津らしさ」を形作るものは、風景や特産品といった「今そこにあるもの」だけではなく、これまでこの地域の人々が紡いできた生活や風習など、いわゆる奥会津の文化がその大きな部分を占めているのではないかと考えるようになりました。これまでの奥会津の人々が紡いできた文化、それは決して重要文化財や大きなお祭りばかりではなく、この地域に住まう人々が日常的に送ってきた生活であり、その生活の中で生まれる民具であったり、風習であったり、信仰であったりするなのではないかと思います。(抜粋)

本文はこちら

NEW 連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第1回「文化の泉を掘る~三島町歴史文化基本構想について~」

8月8日(土)、連続オープンディスカッション「奥会津の周り方」第1回「文化の泉を掘る~三島町歴史文化基本構想について~」を三島町工人の館で開催しました。


奥会津でいちはやく、平成23年に策定された「三島町歴史文化基本構想。
策定に携わられた矢澤源成氏(三島町長)、赤坂憲雄氏(学習院大学教授/元福島県立博物館長)に、当時の思い、交わされた議論、そしてこれからについてお話しいただきました。


「足下の泉を掘れ」を合言葉に、いわゆる「文化財」ではなく、足下にある自分たちが本当に大切にしたいと思うものについて議論を重ねてこられたこと、そうして編まれた三島町の物語こそが文化であることを教えていただきました。
その背景には、市町村合併などによって、それぞれの地域に住まう土地の神・産土(うぶすな)神や、産土神を紐帯とする地域のコミュニティが失われてきたことに対する思いがあったといいます。
今一度、幸福とは何なのか、この土地で暮らすとはどういうことなのか見つめ直し、自らの誇りとし、こどもたちに伝えていくこと。
そうすることで、たとえ三島を離れたとしても、「自分は三島の子だ」というしっかりとした骨格ができるのではないか。
生活工芸館をはじめとした地域の文化施設が、そうした文化を伝え学ぶ場になってきていることについて、対話がなされました。


奥会津各町村それぞれの個性を大切にしながら互いに認識を深めあっていくことが、自己認識を深めることにもつながる。
地域の文化施設がその場となり、継続的に行き来を続けていく仕組みづくりが大切という提言もなされました。
この連続オープンディスカッションが、その一つの場となれるよう回を重ねていきたいと思います。


ディスカッション終了後の振り返りミーティングでは、次回の柳津町にしっかりとバトンが渡されました。


ミュージアムは産土になり得るか


を大きなテーマに、対話のリレーをつづけます。